憧れのデニス・ブレイン

前へ | 過去ログメニューへ次へ

470.セレナードK.375、K.388(2回目の録音)

name: Favart - 2003/04/24

ハース指揮LBEの2回目の録音を聞きました(CCL 30119)。演奏、録音ともに1回目の録音とあまり変わらないような気がします。1回目の録音から5年しか経っていないのですから演奏はあまり変わらないとしても、この頃の録音は日進月歩の時代ですからステレオになるなどしていてほしかったですが、実際にはあまり変わりばえがしません。再録音した理由として、ひとつ考えられるのはハースがこの曲に関して思い入れが強かったからではないかと思います。このレコードの解説はハースが自ら執筆していますが、セレナードに関する記述はかなり詳しい内容でした。実際、セレナードK.375はオリジナルの編成(オーボエなし)の録音もこのレコードに入っています(2番目のメヌエットとトリオ)。残念ながら、オリジナルの方はホルン:Civil/Cursueです。オーボエなしだと雰囲気がエレガントで好ましく感じます。
ハースとブレインの最後の録音(1957.5.17&18)はR.シュトラウスOp.4、他の入ったCCL30120ですが、セレナード(CCL 30119)もほぼ同時期(1957.5.13&16)に録音されていて、こちらもハースとの最後の録音と言えそうです。
ついでに、K.375の旧録音の演奏者はTESTAMENT(C2000)のCDとマーシャルの本(C1996)で異なったメンバーになっていますが、TESTAMENTの方が正しいのではないかと思います。マーシャルの本ではK.388の旧録音と全く同じメンバーになっています。

例のパイ録音ですね!1991年にEMIから出たCD、CDM 7 63958 2はSTEREOでした。以前Favart様に聴かせて頂いたCCL30120と同じ内容のカセットテープ(PRT ZCGC 7054、P1984)にもSTEREO表示ありました。

カール・ハース/ロンドン・バロック・アンサンブル(LBE)のモーツァルトのセレナード第11番変ホ長調、K375と12番ハ短調、K388/384aの新旧盤。旧盤はEMI傘下のパーロフォンでプロデューサーはいつものウォルター・レッグではなく後に「Beatlesを創った男」として知られるジョージ・マーティン。彼について英国音楽紹介家の山尾敦史さんがWEB(→こちら)上で詳しく語られています。

新盤はパイ/ニクサのジョン・スネイシャル。英ICRC誌1995年9月号に彼が1956年からパイでアメリカやドイツの機器を使ってステレオ録音の実験を始めたとあります。ニクサやマーキュリー、ウェストミンスターといったレーベルのために毎月大量の録音をやっていたようです。

夢中人 2003.04.25

469.UK2003年5月新譜

name: 夢中人 - 2003/04/24

Sony Classical.UK よりサー・トーマス・ビーチャム/ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団CBS録音のさらなるCD化。うーんもうこうなったら次回はロッシーニ/歌劇「婚約手形」序曲(1950.9.28録音)やメユール/歌劇「若きアンリの狩り」序曲(1953.12)をお願いしますッ!

モーツァルト
交響曲第36番「リンツ」(1954.5.1)
同第38番「プラハ」(1950.4.18)
同第39番(1955)→without Dennis Brain
SMK87963

ディーリアス
アラベスク(1955)→without Dennis Brain
ハッサン(1955&1956)→without Dennis Brain
エヴェンテュール(むかしむかし)(1951.1.12&4.13)
歌劇「コアンガ」 終幕の場(1951.1.26)
SMK87966

シベリウス
交響曲第1番(1951.5.23,11.16&17,12.5&7,1952.5.5)
歴史的情景(1950.9.28,1952.6.13&8.13)
 第1番作品25よりフェスティーヴォ
 第2番作品66より
  3.はね橋にて
  2.愛の歌
  1.狩り
カレリア組曲から行進曲風に作品11(1953.12)
SMK87798

ベルリオーズ
テ・デウム(1953.12.3)
フランク
交響詩「呪われた狩人」(1951.3.9)←出ましたッ!
SMK87964

メンデルスゾーン
序曲「ルイ・ブラス」作品95(1951.3.16)
同「フィンガルの洞窟」作品26(1950.2.7&6.1)
交響曲第4番イ長調「イタリア」作品90
シューマン
劇音楽「マンフレッド」作品115(1954.12,1955,1956)→without Dennis Brain
ブラームス
悲劇的序曲作品81(1953.12)
SMK87965

CBSディーリアス録音全集
エヴェンテュール(むかしむかし)(1951.1.12&4.13)
アラベスク〜バリトン、合唱と管弦楽のための(1955)→without Dennis Brain
劇音楽「ハッサン」〜バリトン、合唱と管弦楽のための(1955&1956)→without Dennis Brain
歌劇「コアンガ」 終幕の場(1951.1.26)
北国のスケッチ(1949.2.14)→without Dennis Brain
 1.秋、木々にざわめく風
 2.冬景色
 3.踊り
 4.春の行進曲
アパラチア(1952.10.29,11.6&7,12.13&18)
狂詩曲「夏の庭園にて」(1951.10.27)
幻想序曲「丘を越えて遥かに」(1950.2.7)
海流〜バリトン、合唱と管弦楽のための(1954.4.28,12.2&3)→without Dennis Brain
夜想曲「パリ」〜大都会の歌(1955)→without Dennis Brain
サー・トーマス・ビーチャムによる「人生のミサ」解説
人生のミサ(1952.11.6&8&11,12.8&9&10&12&13,1953.1.1&20,4.10,5.14)
SX5K87342

●このシリーズに関するこれまでの投稿

59.ビーチャム「謎の」CBS録音
60.破棄されたPhilips録音原簿
107.(2002年)UK7月新譜
124.UK11月4日新譜&125.UK新譜
131.エロイカのホルン・コール
138.ジークフリートのホルン・コール
145.田園交響曲
283.丘を越えて遥かに
453.ビーチャムの新しいチャイコフスキー・アルバム

468.(欠番)


467.ミュージック・イン・ジ・エアー

name: 夢中人 - 2003/04/22

1945年2月9日、米コロラド州、デンヴァー、ローリー・フィールドにて演奏する英空軍交響楽団。(←1945年2月9日、米コロラド州、デンヴァー、ローリー・フィールドにて演奏する英空軍(RAF)交響楽団)

ロンドンの高級ホテル、メイフェアーのディナー・タイムに出演していた6人のジャズ・メン、ジョージ・チショルム(trb)、トミー・カーター、アーチー・クレイグ(tpt)、ハリー・ルイス(cl、sax)、ジミー・ミラー、シド・コリン(gt)らが戦争が激化するとともに勇気ある愛国精神というよりかはバンドの演奏機会を求めてイギリス空軍に従軍することになった。そこで彼らとデニス・ブレインの出会いが・・・。

「戦争の思い出というのは本当のところはアンツィオ(イタリア)やトブラク(リビア)みたいなぞっとするような海外の戦場に行った英雄たちのことだよね。でもまあ俺達はアクスブリッジに配属されたんだ。ミドルエセックスの静かでまったくぞっとするところだよね!俺達にとっちゃアクスブリッジは駐屯地だったけれども、大概ほかの人達にとっちゃどこかの戦地に送られる前にちょっといるだけのところだったみたいだね。空軍中央音楽隊がうまい具合にそこに駐屯していたんでそれにくっついている俺達にはまさに完璧な環境だったんだ。」

「俺達のバンドは6人きりだったので自分達でもっと大きくしないといけない。だからアクスブリッジに来たトランペットやサックス吹きで配属前の奴を見つけたらいつも勧誘した。そうして14人になるまでやってきたミュージシャンを集め続けたんだ。それに中央音楽隊のメンバーにはストリング・セクションのモーリス・ウェスタビィ、フレディー・グリンキー、デーヴィッド・マーティンやホルン吹きのノーマン・デル・マー、デニス・ブレインといったクラシック界の物凄い名人がいたんだ。金でそのオーケストラを買ったんじゃない。戦争で集めたんだ。でもそんな若者達も中央音楽隊じゃあ無駄だった。指揮者で空軍中佐オドンネルが部隊を預かりながらヤタタタタみたいな音楽しかやらなかったんでね。」

「オドンネルは指揮台で横向きに立ってまるでピストルを二丁ふりかざしているように見えたため隊では「二丁拳銃のルディー」と言われるようになった。彼の下のミュージシャン達はまるでピストルを突きつけられているように感じてたに違いないからぴったしだったみたい。デニス・ブレインとデル・マーやさっき言った弦楽器奏者の偉い先生方はこの古臭いオッサンを問題にしなかったし、まるでエディンバラ・ミリタリー・タトゥーみたいに4分の4拍子で敬礼していた。俺もまだ直立して差し上げていたけどいつもバンドがそんな風なのを見るとヒステリックに笑うしかなかったね。」

「ブレインは当時若くて酒好きの(原文:liked a few pints)まったくの天才的ホルン奏者だった。わかると思うけど彼は与えられたことにいつもとても退屈していたね。 連中はずっとエルガーやバッハ、モーツァルトを演奏していたけれど「二丁拳銃のルディー」が判って連中を我慢させていたかは知らない。ときどきデニスはバンドからこっそり抜けて俺達の練習場にやってきた。 練習場といってもアコースティックのきれいな風呂場だけどね。デニスにとっちゃ良い気分転換だった。俺達の演奏が気に入って、そのうちデニスにフレンチ・ホルンで吹いてもらうことになった。ホルンの入ったジャズ・コーラスを幾つか書いたね。 それがまた凄かった。とても気に入ってくれたよ。特にノン・ストップのヤタタタ・ダイエットの後なんかはね!」

(イギリスのウェブサイト Gentleman of Jazz の第6章 MUSIC IN THE AIR より転載。サイト・オーナーの Bob Sinfield さんのご好意で翻訳・使用許可を頂きました。)

466.チャイコフスキーのホルン・ソロ2題

name: 夢中人 - 2003/04/19

マンフレッド交響曲の第3楽章に短いですが素敵なホルン・ソロがあります。調べますと標題が「狩人の生活」とあり納得でした。演奏はパウル・クレッキー指揮フィルハーモニア管弦楽団(PO)(Testament SBT 1048、P1994)。カップリングも良くボロディンの交響曲第2番です。

もう一つは序曲「嵐(The Storm)」、ロヴロ・フォン・マタチッチ指揮PO(EMI CZS 5 68739 2、P1996)。こちらのソロはかなり長め。曲はほかに日本の時代劇を思わせるリズムが刻まれる箇所があり一度聴くと忘れられません。


465.ボブ・シャープレスと彼のオーケストラ

name: 夢中人 - 2003/04/16

イギリスからボブ・シャープレスの新譜アルバム到着しました。CD二枚組で「コントラスツ・イン・ハイファイ」(1957)はモノラルですがとても綺麗な音。もう一枚の「ディメンションズ・イン・サウンド」(1960)にはデニス・ブレインは登場しませんがこれがまた傑作。チャイコフスキーの交響曲第4番のスケルツォを真面目にやったと思ったら「口笛吹きと子犬」やメイナード・ファーガソンばりの「星条旗よ永遠なれ」(←昔NHKFM「ブラスの楽しみ」で聞いた覚えあり)ときます。Deccaのフェイズ4ステレオの先駆けとも言うべき遊び心満点の楽しいディスクでした。

ブレインの吹くワルツ2曲。特に Will you remember ではいつになくやるせない表情を見せます。オールド・ファッション&ノスタルジック!

464.セシル・ジェームズ(1913-1999) 下

name: 夢中人 - 2003/04/15

イギリスの平和なるエドワード王朝時代から伝統的に使われていたフレンチ・バスーンの名器ビュッフェの使い手セシル・ジェームズに関するお話の続きです。

「セシルはちっとも紳士を気取るところはありませんでしたが、必要とあらば人をぴしっと動かす力を持っていました。戦争だった頃、彼の車に乗ってマールボロ(ウィルトシャー州)に立ち寄ったときのことです。彼は空軍の制服姿でキャッスル・アンド・ボール・ホテルに入り、丁寧にコーヒーを頼みました。するとボーイがラウンジは将校達のために予約済みだと言うんです。すぐさまセシルは空軍元帥に変身しました。‘私はコーヒー二杯と言ったのだが’するとそのボーイ。そこいらじゅうに聞こえる声で‘はいお客様!すぐお持ちします。お待たせして申し訳ございません!’」

「戦争でロンドンの大オーケストラはさっぱりでしたが、名プレーヤーたちは新しく出来たばかりの室内オーケストラやアンサンブルに入りました。セシル・ジェームズもしかりで、これら楽団の1番バスーンやデニス・ブレイン管楽五重奏団のメンバーとなりました。そこでデニスの兄のレナードがオーボエ、スティーヴン・ウォータースがクラリネットですべてRAMやRCMの学生だったのでお互いによく知っていました。レギュラーのピアニストに選んだのはやはり名手で大ベテランのウィルフレッド・パリーで何度も聞くのはちょっと勘弁してというようなおふざけで物真似をする性質(たち)の人でした。たとえばプーランクの六重奏曲の練習中、フォルテッシモの和音の後に全休止の箇所でウィルフレッドはその日顔を見せなかった常連客の真似をして皆を笑わせました。セシルはこういったことをうっちゃって置けない性質だったものですからウィルフレッドの冗談に‘もうたくさん!面白くもなんともない!’と癇癪を起こすなんてことがしょっちゅうで…。」

セシル・ジェームズの経歴についてもう少し


463.セシル・ジェームズ(1913-1999) 上

name: 夢中人 - 2003年04月13日 23時12分54秒

英空軍中央音楽隊(RAF)で「三銃士」と呼ばれたのはデニス・ブレイン、ノーマン・デル・マー、ガレス・モリスの三人。そのガレス・モリス(b1920)が先輩格のバスーン奏者、セシル・ジェームズ(1913-1999)について語った文章(1992年8月、B.D.R.S.、ダブル・リード・ニュース)があります。RAFやデニス・ブレイン管楽五重奏団のエピソードが出て来ますので、その部分拾い読みしてみましょう。

「セシル・ジェームズは王立音楽大学で勉強して第二次世界大戦が始まった頃すでにロンドンで音楽家稼業に就いていました。優れた奏者であるがゆえにロンドン交響楽団のメンバーであるほか室内楽やらたくさんの仕事がありましたが、たぶん彼にとってグラインドボーン歌劇のシーズンが一番楽しいものだったでしょう。美しい場所でフリッツ・ブッシュがわが国で最も優れた歌劇の指揮をやりましたから。そこでセシルは大変敬愛するバスーン奏者、ポール・ドレイパー(最後には何日間も口をきかないこともあるという性癖の持ち主)とコンビを組みました。また妻のナタリー(エヴリン・ロスウェルとオーボエ・デュオを組んでグラインドボーンでピクニックをする人々に大受けしたに違いありません)と一日中輝く太陽をエンジョイしたんです。それから戦争がありました。セシルは多くの友人とともにRAFに入りました…」

「セシル・ジェームズと最初に出会ったのはアクスブリッジ本部での英空軍中央音楽隊と交響楽団の練習に彼が現れたときです。私達の多くは既に戦時中の増員で来ていました。セシルは来てすぐにコワい音楽監督のR.P.オドンネル空軍中佐に面談されてオーケストラで吹いてみるよう言われました。それでセシルはバスーンの素晴らしい音階のあるエルガーの組曲「青春の杖」を吹きました。すると彼が簡単にパラパラッと決めたものですから、見ていた我々は彼の格好良い着こなしやらほとんどシガレット・ホルダーのように見えるリードやクルークに目を見張ったものです。ジェームズさんはすぐAC2(Aircraftman、空軍一等兵)になりました。彼は敬礼をしなくてはいけないこと以外は空軍中佐の良いお相手でしたね。」 (続く)


462.デニス・ブレインの肖像写真

name: 夢中人 - 2003年04月10日 17時06分45秒

ロンドンのナショナル・ポートレート・ギャラリーにデニス・ブレインの肖像写真が展示されています。同館のウェブサイトでも一点閲覧できますのでご紹介します。ちょっと見た事の無い特別な巻きの楽器を手にしたデニス・ブレイン(Howard Coster、1956年撮影)です。

1. ナショナル・ポートレート・ギャラリーのHP http://www.npg.org.uk/ を訪問。

2. search the collectionをクリック。

3. advanced searchをクリック。(←文中にあって少し判りにくいです)

4. Sitter(モデルになる人)にチェックが入っていますのでそのままサーチ・フォームにDennis Brainと入力する。

5. 1 sitter matching 'Dennis Brain'と結果が出ます。その下の名前Dennis Brain(1921-1957)をクリックするとしたポートレートが現れます。

もちろん4.で最後にサーチ・ボタンを押してくださいネ。サー・トーマス・ビーチャムの場合、珍しい鉛筆画やRPOを立ち上げた1946年の思索的な肖像写真もあります。

461.過去からの声〜英国トロンボーン協会のHPから

name:夢中人 - 2003年04月10日 13時18分39秒

英国トロンボーン協会のHPのコラム「過去からの声(Voice From The Past)」に初期のフィルハーモニア管弦楽団のメンバーに関する記述があります。また当該ページには1950年代のフィルハーモニア管弦楽団のトロンボーン・セクション(ローレンス・マーチン、スタンレー・ブラウン、ミック・フェラン)の写真もあります。以下にその後半部分を抜粋してご紹介します。

たくさんの音楽家が軍隊に応召されました。ローレンス・マーチンもウィンザーに駐屯するロイヤル・ホース・ガーズ(近衛騎兵)に入隊しましたが、非番のときは必ずLSOとの関係を維持していました。「戦争が続くにつれ軍楽隊がますます嫌になりました。たぶん将校になれば良かったんでしょうが、私にはその資格はありませんでした。そのまま軍隊で18ヶ月ばかりやりました。今思うとたぶんバンドにいるべきだったんでしょうが、音楽的に退屈でやってられませんでした。」

ローレンスは1945年10月に除隊となり、1946年、LSOは将来を嘱望された若い才能、ベンジャミン・ブリテンによる新しい作品の撮影のためにデンハム(スタジオ)に戻りました。それが「オーケストラの楽器」という映画で、サー・マルコム・サージェントが「青少年のための管弦楽入門」 の指揮とナレーションをやりました。「若い人がトロンボーンのベルがカメラに光を反射し過ぎるといって‘やすり’を持ってやってきて光らないようにしたんですよ!」この時までにジョック・アッシュビーは1番トロンボーンに昇進してスタンレー・ブラウンが2番で入っていました。「スタンレーはハンウェル・シルヴァー・バンドと戦時中はRAFオーケストラで吹いていました。ベン・アッシュビーが退団してジョックが首席になった時、LSOのフルート奏者の一人でやはりRAFオーケストラにいたエディー・ウォーカーがスタンレーはこの仕事には理想的だと思うと言っていました」

スタンレーは1番トロンボーンという仕事へ就く目的があり、フィルハーモニアという就職口が見つかった時、彼は直ぐさま移ってしばらくするとローレンスに入るよう説得しました。ミック・フェランが2番。フィルハーモニアはほんの数年前にウォルター・レッグによって当時自分自身による支配を強く望んでいたビーチャムのためにオーケストラ・ショーケースとして組織され、首席指揮者を置かずに活動していましたが多数のスター・ソリストや指揮者を魅了しました。「ディヌ・リパッティとのグリーグの協奏曲の録音があったね。それとイザイ・ドブロウエン、パウル・クレツキ、ヘルマン・シェルヘン、もちろんフルトヴェングラーとキルステン・フラグスタートとのいくつかの有名なワーグナー録音があった。ある時フルトヴェングラーは楽団の管理者の一人に‘トロンボーン達によろしく言ってください’とおっしゃったそうですから我々は彼を充分喜ばせたに違いありません」

1950年代はじめ、フィルハーモニアで3、4年いた頃、ローレンスに再び動きがありました。Gバストロンボーンは時代遅れになりつつあり、さらなる楽器上の再調整が予想されたため、ローレンスは休むことなく勉強してビジネスへの道を考えることになる。(中略)フレッド・マンスフィールドがフィルハーモニアでのローレンスの仕事を替わり、さらにレイ・プレムルが交替しました。 ミック・フェランが退団する時、アーサー・ウィルソンが2番トロンボーンに指名され、すぐにアルフレッド・フラジンスキが首席トロンボーンで入りました。アーサーは結局のところ首席になって1980年代までフィルハーモニアにいました。(後略)


スタンレー・ブラウンについてはこちらもご覧ください。


前へ | 過去ログメニューへ次へ