■演奏者紹介

フレデリック・グリンケ(キ)(b1911)
ヴァイオリン奏者

 王立音楽アカデミー(RAM)でヴァイオリンをアドルフ・ブッシュ、カール・フレッシュに学ぶ。1937年、ボイド・ニール弦楽合奏団のコンサートマスターに就任。大戦中は、デニス・ブレインと同様、イギリス空軍(RAF)交響楽団で活躍。独奏者として活躍し、ゴードン・ジェイコブ、レノックス・バークリー、ヴォーン・ウィリアムズなどのイギリスの作曲家から作品を贈られた。

 CDにはアイルランド、ヴァイオリン・ソナタ集ほか(Dutton Laboratories、CDLX7103)。ロンドンのナショナル・サウンド・アーカイヴに、デニス・ブレインとの共演でエセル・スマイスのホルンとヴァイオリンの為の協奏曲の放送録音レコードが所蔵されているという。是非聴いてみたいと思う。

(参考:演奏家大辞典、財団法人音楽鑑賞教育振興会、1982年7月28日)

ノーマン・デル=マー(1919-1994)
ホルン奏者、指揮者

 王立音楽大学(RCM)で作曲をヴォーン・ウィリアムズに、指揮をコンスタント・ランバートに学ぶ。第2次大戦中、RAF中央音楽隊(セントラル・バンド)、交響楽団でホルン奏者。1944年、チェルシー交響楽団を創設。1946年、デニス・ブレインのリヒャルト・シュトラウスのホルン協奏曲第2番、イギリス初演を指揮。ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団(RPO)でホルン奏者、ついで1947年から副指揮者。以降イギリス・オペラ・グループ(1948-56)、ヨークシャー交響楽団(1954-5)、BBCスコティッシュ交響楽団(1960-5)、グーテンベルグ交響楽団(1969-73)、オーフス交響楽団(1985-8)で指揮者。ギルドホール音楽学校(1954-60)、RCM(1971-90)で教授。著書に『リヒャルト・シュトラウス』全3巻(1962-72)、『ベートーヴェンの指揮』(1992)、息子のジョナサン(b1951)も指揮者。

 CDには、ホフナング音楽祭、1956、1958、1961(EMI、CMS 7 633302 2、P1989)、アーノルド管楽協奏曲集(EMI、EMX 5 66117 2、P1996)など。

(参考:オックスフォード音楽辞典、オックスフォード大学出版、1994年ほか)

レオン・グーセンス(1897-1988)
オーボエ奏者

 有名な音楽一家グーセンス家に生まれた。祖父、父、長兄と3代のユージンは、指揮者。次兄アドルフは、ホルン奏者(第1次大戦で戦死)。マリー(1894-1991)とシドニー(b1910)姉妹は、ハープ奏者。RCMでチャールズ・レイノルズにオーボエを学んだ。17歳でクイーンズ・ホール管弦楽団(1913)。RCM、RAM教授。コヴェント・ガーデンとロイヤル・フィルハーモニー協会管弦楽団(1924)。ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団(1932)とRPO(1946)の創設時メンバー。1939年から独奏者としても活躍。バックス、ブリス、ブリテン、エルガー、ヴォーン・ウィリアムズが彼の為に曲を書いた。1962年、交通事故で歯と唇にダメージを受けたが、1966年、奇跡的に演奏活動に復活。

 CDには、レオン・グーセンス(Testament、SBT1130)。生誕100周年記念アルバム(Paerl、GEMM CD 9281、P1997)。魅惑のグーセンス・ファミリー(CHANDOS、CHAN 7132、P2000)などのほか山野楽器からもリサイタル盤が出ていた。

レナード・ブレイン(1915-1975)
オーボエ奏者

 RAMに学ぶ(1937-9)。第2次大戦中、応召してRAF中央音楽隊、交響楽団。戦後、フィルハーモニア管弦楽団(PO)(1945-6)、 RPO(1946-73)、デニス・ブレイン管楽合奏団団員。1963年からRAM教授。

 CDには、モーツァルトのピアノと管楽器の為の五重奏曲(EMI、CDM 5 66950 2、P1998)。デニス・ブレインが亡くなったその月にアンソニー・コリンズがレナードのコール・アングレーでシベリウスの「トゥオネラの白鳥」を録音しました(Beulah、5PD8P、1997)。

ナタリー・ジェームズ
オーボエ奏者

 グラインドボーン歌劇とロンドン交響楽団でエヴリン・ロスウェル(b1911、指揮者のジョン・バルビローリ夫人)とオーボエを吹き、伝統の英国スタイルとチャーミングなことで人気があった。1938年、バスーン奏者のセシル・ジェームズと結婚。

戦後ロンドン・バロック・アンサンブルに参加、モーツァルトのセレナード第12番ハ短調やドヴォルザークのセレナード、ニ短調の録音には夫とともに参加した(Testament SBT1180、P2000)。

(参考:ガレス・モリス「セシル・ジェームズ」、1992年8月B.D.R.S.ダブル・リード・ニュース)

セシル・ジェームズ(1913-1999)
バズーン奏者

 ホルンのブレイン家と同様、歴代名バズーン奏者の家系。叔父エドウィンは、ロンドン交響楽団(LSO)の創設(1904)に参加、クイーンズ・ホール管弦楽団(QHO)団員。父ウィルフレッドは、QHO団員、RCM教授。叔父フランクは、トランペット奏者。セシルとレスリー兄弟は何れもバズーン奏者。セシルは、トリニティー・カレッジとRCMで学ぶ。1933年、LSOに入団。1938年、オーボエ奏者のナタリー・ケインと結婚。第2次大戦中は、RAF中央音楽隊で活躍。デニスと同様、1944年アメリカ演奏旅行、ポツダム会議に参加。戦後、新交響楽団、PO(1951-1961)。ピーター・パリー、ポール・ドレイパーらとフランス製楽器(ビュッフェ)を使用した。PO退団後、しばらくRPO、その後フリーランス(1980年まで)。

 イギリスにおけるバズーン演奏の変遷は、ホルンのそれと似ていて面白い。戦前、ドイツ語圏以外でバズーンは、「フレンチ」が支配的だった。しかしながら、1930年代ロンドンでベルリン・フィルハーモニーやフィラデルフィア管弦楽団が好評を得て以来、多くのイギリス人演奏家は、楽器をより「安全」なドイツ(ヘッケル)に切替えた。ホルンも伝統的なフランス式からドイツ式に変わりつつあった為、その筋でかなりの議論がまき起った。ワルター・レッグは、ヘルベルト・フォン・カラヤンが1969年パリ管弦楽団で行ったように、オーケストラの楽器をドイツ式に強要したという。事実ジェームズの引退当時、イギリスでフランス製バズーンを吹くプロ奏者は、彼一人だった。

 POでの録音では、イーゴリ・マルケヴィッチとのストラヴィンスキー「春の祭典」(Testament、SBT 1076、P1997)、ギド・カンテルリとのチャイコフスキー「悲愴」(EMI、CDH 7 69785 2、P1989)、ウィルヘルム・フルトヴェングラーとのベートーヴェン第9(Tahra、FURT 1954/57、P2000)、カラヤンとのベートーヴェン第4(東芝EMI、TOCE-5971/5、P1990)やモーツァルト「管楽器の為の協奏交響曲 K297b」(Testament、SBT 1091、P1996)。その他フィルハーモニア管楽アンサンブル/ワルター・ギーゼキング(pf)でモーツァルトとベートーヴェンのピアノと管楽器の為の五重奏曲(Testament、SBT 1091、P1996)など。

(参考:木曜評論/ウィリアム・ウォーターハウス、英インディペンデント紙、1999年2月4日)

ボイド・ニール(1905-1981)
指揮者

 ケンブリッジ大学で医学を学び、インターン実習まで積みながら音楽の道に転向した。ロンドンのギルド・ホール音楽学校に学び、1932年、音楽学校の学生を主体として18名のメンバーでボイド・ニール弦楽合奏団を結成。新進気鋭のベンジャミン・ブリテンに曲を委嘱(当時ブリテンは「早書き」で1月足らずで作品を仕上げたという)。1934年、「シンプル・シンフォニー」、1937年8月には「フランク・ブリッジの主題による変奏曲」をザルツブルグ音楽祭で世界初演。 大戦中、海軍に入ったが、戦後はサドラーズ・ウェルズ・オペラ(1945-46)、ドイリー・カート・オペラ(1948-49)で指揮者を勤めた。ボイド・ニール管弦楽団は、ヨーロッパやオーストラリア(1947)へ楽旅したほか、エディンバラ音楽祭の常連にもなった。1953年、カナダへ移住。トロント王立音楽院の学部長を勤めた。 レコードには、DECCAに録音したヘンデルの合奏協奏曲集作品6(全12曲)が有名で、堅実に磨きぬかれたアンサンブルに加え、おおらかな感情の高揚と陰影に富んだ名盤。ブランデンブルグ協奏曲全曲には1956年録音(Hr:デニス・ブレイン&ニール・サンダース)もあった。

 CDには、ナショナル交響楽団とサン・サーンス「死の舞踏」、ウォルフ=フェラーリ「マドンナの宝石」第1、第2幕間奏曲(Dutton Laboratories、CDK 1200、P1995)やエルガー「夜のうた」「朝のうた」(同、CDK 1203、P1998)など。著作には『私のオーケストラとその他の冒険の思い出』(デヴィッド・フィンチ編、トロント大学出版、P1985)がある。

グウェンドリン・メイソン
ハープ奏者

 トリニティー・カレッジに学ぶ。バックスのハープ四重奏曲(1919)の管弦楽版を初演。1942年12月12日、ナショナル・ギャラリー・コンサートでブリテンの「女声とハープの為のキャロルの祭典」を初演。

 CDには、ラヴェルの自作自演(1930、ロンドン)「ハープ、フルート、クラリネットと弦楽の為の序奏とアレグロ」(URANIA URN 22.126) があり、ヴィオラを後年デニスの為に曲を書いたアーネスト・トムリンソンが弾いているのが面白い。

ロイ・ヘンダーソン(1899-2000)
声楽家、合唱指揮者

 RAMに学ぶ。1925年、ディーリアス「人生のミサ」が初舞台。1934年からグラインドボーン歌劇に出演。ノッティンガム・オリアナ合唱団音楽監督(1936-52)。1940年、RAM教授。教え子にはキャサリン・フェリアー。若い頃、クリケットの名手でもあった。

 CDには「ロイ・ヘンダーソン生誕100年リサイタル」(Dutton Laboratories、CDLX 7038、P2000)。フェリアー、ノッティンガム・オリアナ合唱団、ボイド・ニール管弦楽団を指揮した「マタイ受難曲」(Dutton Laboratories、2CDAX 2005、P2000)がある。

フレデリック・サーストン(1901-1953)
クラリネット奏者

 RAMでチャールズ・ドレイパーに学ぶ。BBC交響楽団首席奏者(1930-46)。1952年秋、アルトゥーロ・トスカニーニ指揮POによるブラームス交響曲全曲演奏会に特に招かれてソロ・クラリネットを演奏。RCM教授。彼の為にアーサー・ブリス、ゴードン・ジェイコブ、ジェラルド・フィンチ、アーノルド・バックスらが曲を書いた。夫人のシア・キングも名クラリネット奏者。

 CDには上記トスカニーニ/PO演奏会(Testament、SBT3167、P2000)や、生誕100年記念アルバム(Clarinet Classics、CC0037、P2001)がある。

(参考:オックスフォード音楽辞典、オックスフォード大学出版、1994年ほか)

ジェルヴァーズ・ド・ペイエ(b1926)
クラリネット奏者

 RCMでフレデリック・サーストンに学ぶ。パリでルイ・コーザックに学びソリストとして名を高めた。LSO首席奏者(1955-71)。メロス・アンサンブルでも活躍。ジョセフ・ホロヴィッツ、シア・マスグレイヴほかの曲を初演。

(参考:LSO来日公演プログラム、1955年ほか)

ワルター・ジュスキント(1913-1980)
指揮者

 チェコ生まれ。プラハ音楽院でスークらに学ぶ。プラハ音楽アカデミーでジョージ・セルと共に指揮者。プラハ・ドイツ歌劇場で「椿姫」を指揮しデビュー。チェコ・トリオでピアニスト(1933-8)。1938年、ロンドンに亡命、1942年までチェコ・トリオで演奏。カール・ローザ歌劇場(1943-5)首席指揮者。スコティッシュ管弦楽団(1946-52)、メルボルン、ヴィクトリア交響楽団(1953-5)、トロント交響楽団(1956-65)、アスペン音楽祭(1962-8)、セント・ルイス交響楽団(1968-75)指揮者。イリノイ州立大学教授(1968-75)。シンシナティ交響楽団音楽顧問兼首席客演指揮者(1975-80)。多くのイギリスのオーケストラや歌劇場を客演指揮、弦楽四重奏団のピアノ伴奏を行った。

 CDには、デニス・ブレイン/POとのモーツァルト/ホルン協奏曲第2番(EMI、CDH 7 64198 2、P1992)、ヤッシャ・ハイフェッツ/POとのチャイコフスキー/ヴァイオリン協奏曲(RCA、09026-61738-2、P1994)、同じくベートーヴェンロマンス第1、第2番(TESTAMENT、SBT 1216、P2001)などの伴奏指揮をはじめ、シンシナティ響との「大地の歌」ほか(Vox、CDX 5138、P1995)ワルター・ジュスキント名録音集第1巻(Arlecchino、ARL 81-82、P1996?)など。

ウォーリック・ブレイスウェイト(1896-1971)
指揮者

 ニュージーランド生まれ。RAMに学ぶ(1916-19)。オマラ・オペラ(1919-22)、イギリス・ナショナル・オペラ・カンパニー(1922)指揮者。BBCウェールズ音楽監督(1924-32)。サドラーズ・ウェルズ歌劇場(1932-40)、スコティッシュ管弦楽団(1940-6)、コヴェント・ガーデン(1950-2)、指揮者。サドラーズ・ウェルズ・バレエ(1948-52)首席指揮者。ニュージーランド国立管弦楽団(1953-4)、オーストラリア国立歌劇場(1954-5)指揮者。ウェールズ国立歌劇場(1956-60)、サドラーズ・ウェルズ歌劇場(1960-8)音楽監督。

 CDには、セナ・ユリナッチ、オペラ・アリア集(EMI、CDH 7 63199 2、P1989)、キルステン・フラグスタート/ノルウェーの歌(EMI、CDH 7 63305 2、P1990)、シュワルツコップ/モーツァルト・オペラ・アリア集(EMI、CDH 7 63708 2、P1990)など。

(参考:オックスフォード音楽辞典、オックスフォード大学出版、1994年)

アナトゥール・フィストラーリ(1907-1995)
指揮者

 ロシア、キエフ生まれ。7歳で指揮台に立った「天才」。革命前にパリへ行き、バレエ指揮をやった。大戦中は、フランス軍に応召。戦後は、ロンドンで多くのレコーディングを行った。一時期マーラーの娘アンナと結婚していた。

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