両耳で聴くヤング・レニー記念写真

ガレス・モリス   「デニス、今通り過ぎた中世の大聖堂、ちょっと見ものじゃないか。寄っていこうよ」
デニス・ブレイン 「うーん、もう時間が無いよ。行かなくちゃ」

 1957年7月30日、デニス・ブレイン管楽合奏団は、ザルツブルグ音楽祭に出演するため、はるばるアウトバーンを飛ばしてやって来た。モーツァルテウム大ホールの客席には、ヘルベルト・フォン・カラヤンが他の有名な演奏家や指揮者とともに姿を見せていた。

 カラヤンは、前年音楽祭の芸術監督に迎えられ、アルトゥーロ・トスカニーニがそうであったように、プログラムの決定から出演者の招聘まで全てを掌握する「独裁者」となっていた。デニスは、カラヤンが来たからといってわずかの気負いも起こさなかったけれども、あんな人がわざわざ演奏を聴きに来てくれた、と言って驚いて見せた。

 メンバーの一人、バスーンのセシル・ジェームズが、後にザルツブルグでの思い出を語っている。
「暑い日で、われわれは、アイスクリームをなめなめ、お城を見にぶらぶら出かけた。すると、観光客が声をかけ、昨日の晩ステージで厳しい顔でかしこまっていらっしゃった方と同じとはとても思えませんなあ、とわれわれを一列に並べて写真を撮る。音楽家が、当たり前の人間と同じようにアイスクリームをなめている、というわけ。」

 この演奏をORF(オーストリア放送協会)が収録したかは、知るすべも無いが曲目の一つ、モーツァルトのディヴェルティメント第14番K270をBBCが同年7月22日に録音している(実際の放送は、デニスが事故で亡くなった4日後の9月5日)。1960年、英コロンビアがそのテープをLP化(33CX1687)し、レコードの純益を全てデニス・ブレイン奨学資金に寄附したという。

(参照CD) 東芝EMI TOCE-9225/37 è1997


ノエルのこと記念写真両耳で聴く

 1953年5月6日、デニス・ブレインは、バーデン・バーデンでハンス・ロスバウト指揮南西ドイツ放送交響楽団とモーツァルトの2番と3番の二つの協奏曲を吹いている。先年、伊Arkadiaが第2番をCD化した。問題は、そのCD裏表紙にある Stereo の文字である。これは、一体どういうことだろう。同年11月のヘルベルト・フォン・カラヤンとのスタジオ録音はモノラルだし、一般に、EMIがステレオ録音を始めたのは、1955年2月からとされているではないか・・・

 ナチ時代のドイツは、世界で最も進んだ録音・再生技術を持っていた。事実、帝国放送協会(RRG)は、1941年、BASF製セルローズアセテート磁気テープとAEG製ACバイアス方式テープレコーダー「マグネトフォン」R22モデルを使ったテープ録音を、さらに、その2年後にはR22の後継機、K7によるステレオ録音を開始していた。

 RRGの若い技術者たちは、ベルリン放送局大講堂の舞台から1メートル手前、高さ2メートルに一対のノイマン無指向性CV1マイクロフォン、その中央にモノラルマイクロフォンを据え付け、それらの信号をミキシングした。

 後の1954年、ウォルター・レッグは、EMIの上層部に「ベルリン放送の技術者は、1938年のはじめから重要な演奏会は『立体音システム』を使い始めている」、と報告している。

 ・・・ヘッドフォンを装着し、神経を集中してデニスのライヴ録音を「両耳で」聴く。拡がりはあまり無いが、臨場感はある。時にはブレスも聞こえる。レベルメーターがあれば一目瞭然云々・・・デニスのソロはいつもの如く屈託無く、危なげなく、南ドイツの放送オーケストラの長閑(のどか)な味わいも心地よい。

(参照CD) Arkadia GI 772.1 è1996


掛け持ち稼業両耳で聴くノエルのこと

 ロイヤル・アルバート・ホールに程近い大英図書館ナショナル・サウンド・アーカイヴの中の一室。卓上には、古いオープン・リール・テープの箱が置かれている。変色したラベルには1953年1月28日放送のラジオ・リサイタルのプログラムがタイプされている。曲目は、シューベルトの《流れの上で》 とヒンデミットのホルン・ソナタの二曲。演奏はデニス・ブレイン、ピーター・ピアーズ、ノエル・ミュートン=ウッドの3人である。

 ノエル・ミュートン=ウッドは、1922年11月20日、オーストラリアのメルボルン生まれ、14歳で渡英し王立音楽院でピアノを学んだ。アルトゥール・シュナーベルに教えを受け、1940年、クイーンズ・ホールにてサー・トーマス・ビーチャム指揮ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会でベートーヴェンの協奏曲第1番を弾きデビューした。

 彼は、戦後間もないイギリス音楽界において将来を嘱望されるピアニストの一人に数えられ、ベンジャミン・ブリテンやマイケル・ティペットらと親交を結び、オールドバラ音楽祭などでピアーズやデニスともしばしば共演した。

 ブリテンやピアーズの周囲との絶えざる交遊は、運命的に新たな音楽の創造と同時に同性愛の受容を意味した。ついには芸術と情愛の微妙なバランスは、天秤上でコントロールを失ってしまう。1952年12月5日、ノエルは友人のビル・フレドリクスの死を追うように自らの命を絶った。

 BBCの上記放送録音は残念ながら未だCD化されていない。また、ブリテンがデニス・ブレインに書いたノエル・ミュートン=ウッドのための「メモリー」なる作品も未聴。ただ、1998年、仏ダンテから2枚のCDが出た。ことにベートーヴェンの第4協奏曲(ワルター・ゲラー指揮ユトレヒト交響楽団)は、バラバラッと弾きなぐるあたり師匠のシュナーベルを彷彿とさせる。

(参照CD) Dante HPC106 è1998


続光と影ノエルのこと掛け持ち稼業

 デニス・ブレインは、フィルハーモニアとロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団(RPO)の両方の主席ホルンという類まれな地位に就いていた。当初、フィルハーモニアでは創設者のウォルター・レッグの方針で楽員との契約が全く無かった。レッグが楽員に「絶対取捨権」を持って、録音セッション毎、あるいは演奏会やリハーサル毎に支払われる、いわゆる「取っ払い」だった。サー・トーマス・ビーチャムもRPOのスタープレーヤーの給料を気前良く上げた。

 1954年4月7日のRPO演奏会を最後にデニスは、この「二股」を解消することになる。この辺りの経緯は、後にBBCの人気ラジオ番組無人島レコードで、本人の口から明らかにされている。

 デニス「両方のオーケストラでやっていくのは、当然日に々に大変になりました。それで、どちらか一つ選ばねばならなくなってフィルハーモニアを選びました。どちらのオーケストラが良かったかは、言いたくありませんが、フィルハーモニアの方がソロ契約が多かったということなんです。」

 デニスともう一人両方のオーケストラで主席奏者を勤めた男がいる。ティンパニ奏者のジェームズ・ブラッドショーである。レッグの自伝の中でも彼がティンパニをメロディー楽器だと主張したり、天気の変化を「私のティンパニの調子で分る」と言って的中させたエピソードが触れられている。

 ジェームズは、ジェームズ、フレッド、ウィリアムと何れもフィルハーモニアとRPOで活躍したティンパニ奏者ブラッドショー3兄弟の長男である。末のウィリアムには一人息子のハワードがいて、バーミンガム市交響楽団やBBC交響楽団で活躍したが、このブラッドショー・ファミリーも既に全員故人である。

 あの1954年「ルツェルンの第九」第二楽章冒頭の強烈なティンパニの打ち込みに耳を傾けてみたい。

(参照CD) Tahra FURT1003 è1994


光と影掛け持ち稼業続光と影

 ブラームスの交響曲第2番の最後の力強いハーモニーが鳴り止むや聴衆から割れんばかりの拍手が起こった。兎にも角にもトスカニーニ・コンサートの一日目は終わった。この日のデニス・ブレインの演奏についてネヴィル・カーダスはこう述べている。「第2交響曲の第1楽章の終わりの部分でホルンにロマンティックな伝統の全てを吹きこんだ。その降りしきる調べは、演奏会中最も感動的であった。」

 演奏後のトスカニーニの楽屋は、相次ぐビッグ・カップルの訪問にさながら華やいだ社交場と化していた。その一組はローレンス・オリヴィエ、ヴィヴィアン・リー夫妻、もう一組がチャールズ・チャップリン、ウーナ・オニール夫妻であった。トスカニーニは有頂天となり、サヴォイ・ホテルの自分の部屋での食事に二組を招待した。

 ローレンス・オリヴィエとトスカニーニは、シェークスピアの悲劇『オセロウ』とヴェルディの歌劇『オテロ』について語り、チャップリンはトスカニーニの指揮姿を真似て見せたという。

 前年(1951年)、ヴィヴィアン・リーは映画『欲望という名の電車』での鬼気迫る演技で2度目のアカデミー主演女優賞に輝いた。夫婦の最大の悲劇は、ヴィヴィアンの俳優としての夫サー・ローレンスに対する烈しいライヴァル意識であった。その果てに、実生活では既に長い間重い躁鬱病に苦しんでいた。

 かたやチャップリン夫妻は、映画『ライム・ライト』のロンドンでのプレミアに出席のためニューヨークを出港したその二日後、時の司法長官ジェームズ・マグラネリーから再入国許可撤回の電報をを受け取っていた。以後20年もの間、アメリカの地を離れることとなる。いわゆる「赤狩り(レッド・パージ)」であった。


作曲家の恋続光と影光と影

 アルトゥーロ・トスカニーニのフィルハーモニア管弦楽団との演奏会は、1952年9月29日と10月1日、ロイヤル・フェスティバル・ホールで行われた。プログラムはオール・ブラームスで、この巨匠13年ぶりの訪英に、のべ7千席分のチケットに6万人以上の申込みが殺到した。楽団は最好調で、間違い無く戦後ロンドン音楽界におけるクライマックスとなる筈だった。

 デニス・ブレインは、ブラームスの全ての有名なソロで無類のヴィルトゥオージティを発揮した。音楽評論家のネヴィル・カーダスは、デニスの第1交響曲における演奏を「ハ短調の終楽章のソロは、まるで霧の中から登る太陽のようであった。それは言わば、音楽の細工を施した黄金のように美しかった。」と絶賛している。

 一方で、楽員達は厳格なことで有名な巨匠との初舞台にかなり緊張していた。なかでも、主席トロンボーン奏者スタンレー・ブラウンの場合は極端であった。とにかく終楽章までウォームアップも出来ない。おまけに、数ヶ月前ヘルマン・シェルヘンとのリハーサルで「入り」を間違えたと叱責され、ひと悶着あってメンタル面も弱かった。

 結局、トロンボーンの有名なコラールは不運にも失敗に終わった。演奏会後、楽員仲間のみならず楽界のすずめ達も喧しく非難し、どこでも「あれがトスカニーニの演奏会で大失敗をしでかした男だ」と後ろ指をさした。ブラウンは、その後楽団を解雇され、祖国を追われるようにカナダに渡ったという。

(参照CD) Arkadia CDHP 524.3 è1992


クレンペラーとの相性光と影 作曲家の恋

 スイスの作曲家オトマル・シェック(1886-1957)は、ヴァイオリニスト、シュティフィ・ガイア(1888-1956)に恋をした。「仕草麗しく、歩き方も優雅」と友人に話す程、ベタ惚れであった。恋は作曲家に恋する人のためにソナタと協奏曲を書かせた。随分恋文のやり取りもしたが、結局シェックは彼女の「鋼鉄の貞操」を破れなかった。

 シュティフィは、チューリヒ・コレギウム・ムジクムの創立時からのコンサート・マスターとなる。その後、シェックには「後継者」ができる。彼女に協奏曲(第1番)を献呈しながら、存命中に演奏されなかったベラ・バルトークである。

 シェックのホルン協奏曲は、スイスのブルグドルフに住む実業家でアマチュア・ホルン奏者のWilli Aebi氏の依頼によって1951年に「ビジネスとして」作曲され、翌年ハンス・ウィルの独奏、ヴィクトル・デザルツェン指揮のウィンテルトゥール市立管弦楽団により初演された。

 デニス・ブレインは、1954年の エディンバラ音楽祭でパウル・ザッヒャー指揮チューリヒ・コレギウム・ムジクムと、この曲のイギリス初演をした後、1956年5月4日、トーンハレでの作曲者の生誕70年記念演奏会でもソロを務めた。シェックは、デニスのことを「楽々としたヴィルトゥオージティと気持ち良い音楽性の持ち主」と絶賛している。

 この時のスイス・ラジオDRS放送録音がCD化された。シュティフィによるヴァイオリン協奏曲(こちらはウォルター・レッグ制作)がカップリングされている。

(参照CD) Jecklin Edition JD 715-2 è1997


ヒンデミットあれこれ作曲家の恋 クレンペラーとの相性

クレンペラー   「ブレイン君、私の練習中に猥(わい)本を読むのはやめてくれないかね!」
デニス・ブレイン 「クレンペラー博士、僕は好きなものを読みますよ!」

 デニス・ブレインは、リハーサル中でも自動車雑誌を読んだ。趣味が同じヘルベルト・フォン・カラヤンはともかく、オットー・クレンペラーにはそれが我慢ならなかった。彼はブラームスの第1交響曲の終楽章になると、デニスのソロに強さが足りない、といつも文句をつけた。どうも相性が悪いらしい。

 R.Marshallの『レコードのデニス・ブレイン』は、アラン・シヴィルからMartin J. Prowseへの私信をもとに、クレンペラー/フィルハーモニア管弦楽団によるブラームスの第3と第4交響曲の収録における第1ホルンはデニス・ブレインではなくアラン・シヴィルであったという(少し残念な)事実を明らかにしている。

収録経過 デニス・ブレインの足跡
56/03/26 アビー・ロード・スタジオ 交響曲第3番
(録音未了)
デニス・ブレイン管楽五重奏団イタリア楽旅
56/10/29,30 キングズウェイ・ホール 交響曲第2番 b 収録に参加
56/10/29,31
57/03/28
キングズウェイ・ホール 交響曲第1番 a 収録に参加
56/11/01
57/03/28,29
キングズウェイ・ホール 交響曲第4番 c ブレイン・プーニェ・パリー三重奏団
スコットランド楽旅
57/03/26,27 キングズウェイ・ホール 交響曲第3番 b 同上
57/03/29 キングズウェイ・ホール 悲劇的序曲 a
大学祝典序曲 c
収録に参加

(参照CD) a : EMI CDM 5 67029 2 b : EMI CDM 5 67030 2 c : EMI CDM 5 67031 2 è1999


ゴッダルド峠越えクレンペラーとの相性 ヒンデミットあれこれ

1948年10月10日 バーデン・バーデン、クアザール、モーツァルトの第2番で協演 a
 B.Schott's Sohne撮影の楽屋写真から、この日デニス・ブレインはF管ラウーを使用したことが判る。
 指揮者ヒンデミットは、デニスの演奏に感激し、すぐさま彼の為に新しい協奏曲の作曲に着手、一方
 デニスは48年末までに愛用のラウーをB管に改造する。 

1950年6月8日  バーデン・バーデン、クアザール、ヒンデミットの協奏曲を初演
 
ヒンデミット  「ホルン協奏曲は来年も私に取っておかなくてはならんよ。第一私がトランプの持ち札
          を捨てる訳は無いし、他の指揮者は大概調子っぱずれとくれば、誰だって連中よりは
          上手に振れるというものだ。」

1954年10月7日 キングズウェイ・ホール、クレンペラーとの同曲録音セッションからデニス逐電
 
デニス・ブレイン 「おやじさん、クレンペラーにもっと折り合う気が無いんだったら、売れそうも無いもの
           をこれ以上やってられませんよ。」
 『レコードのデニス・ブレイン』の編者、Robert L. Marshallによる当時の録音メンバー表調査では、続く
 モーツァルトのSym#29やハイドン変奏曲のセッションの第1ホルンはエドムンド・チャップマンとある。

1956年11月21日 同上、ヒンデミットとの録音セッションにて b
 
ウォルター・レッグ「スコアは難しいけれど、ヒンデミットのハッピースマイルと疲れ知らずのエネルギー
            のお陰で、録音は小学校のおたふく風邪のように進んでいるよ。」     

(参照CD) a : Hans Pizka Edition HPE CD 02 è1994 b : EMI CDS 5 55032 2 è1994


お宝登場ヒンデミットあれこれゴッダルド峠越え

  ヨーロッパの分水嶺、アルプス山脈を南北に貫く街道をミラノからチューリヒ方面、サン・ゴッダルド峠(イタリア語読み、ドイツ語読みでザンクト・ゴットハルト、標高2108m)に向けて一台の古ぼけたハドソンがひた走っていた。今では高速道路も鉄道も地中深くトンネルが貫通し、わざわざ峠越えをする必要が無いというから古い話である。

 五月も下旬とはいえ雪まだ深く、切り立った山塊は眼前に迫っていた。運転するのはデニス・ブレイン、助手席には僚友のガレス・モリス、後部座席にはEMI音楽プロデューサーにしてフィルハーモニア管弦楽団の創設者兼音楽監督のウォルター・レッグと彼の妻、ソプラノの名花エリザベート・シュワルツコップがいた。

 実はオーケストラはヘルベルト・フォン・カラヤンに率いられ 初のヨーロッパ・ツアー中であった。昨日、今日とミラノ、スカラ座でのコンサートは大成功で、さらには予てから交渉を重ねていたアルトゥーロ・トスカニーニとの客演交渉が今しがた決まったところであった。

 一行は度重なる成功の喜びに酔いしれて、『通行禁止』を告げる立札に気付かなかった。雪と氷の中をデニス・ブレインが比類無き運転技術により「滑走」させながら峠越えする武勇伝はこの日生まれた。

 伊ハントから、この1952年のツアーの最後の訪問地ベルリンはティタニア・パラストでのリヒャルト・シュトラウスの交響詩《ドン・ファン》 のライブ録音がCD化されている。演奏は意気軒昂、高弦甘味、角笛勇壮である。

(参照CD) Hunt Productions(Arkadia) CDHP 587 è1991


ルツェルンの第九ゴッダルド峠越えお宝登場

 1997年はEMIの百周年で色々企画ものが出た。その中でロンドンのレコード店、ハロルド&ムーアの12月度月間ベスト・セラー14位に入ったのがエリザベス2世女王陛下戴冠式(1953.6.2.ウェストミンスター大聖堂)のドキュメンタリーCDだった。

 戴冠式に先駆けイギリス中を歓喜させたのは、お国の登山隊がエヴェレスト山初登頂に成功した、というビッグ・ニュースだった。隊員の一人、タイムズ通信員のジェームズ・モリスは、たくさんのレコードを持ち込んでいた。その中にデニス・ブレインによるモーツァルトの二番と四番のホルン協奏曲があって、モリスがそれらをシェルパ達に聴かせると、皆大喜びしたという。

 戴冠式のためにイギリス全土から選りすぐりの楽員が集められ、特設オーケストラが組まれた。ホルン・セクションは、トップがデニス・ブレイン、そのほかジョン・バーデン(LSO)、シドニー・クールトン(BBCノーザン)、チャールズ・グレゴリー(LPO)という顔ぶれ、指揮はサー・エードリアン・ボールトであった。

 BBCの実況を含むオリジナルの録音はウェストミンスター大聖堂の現場でミキシングされ、電話回線を通じてアビー・ロード・スタジオNo.3に送られマスタリングされた。これが10日後には3枚組LP(HMV ALP1056/8)にして発売されたというから驚きである。

(参照CD) EMI CZS 5 66582 2 è1997


ビーチャム・ブレイン・シュトラウスお宝登場 ルツェルンの第九

 1954年夏、スイスのルツェルン国際音楽祭に初登場したフィルハーモニア管弦楽団の3週間、9回にわたる演奏会のクライマックスは、8月22日のウィルヘルム・フルトヴェングラー指揮によるベートーヴェンの第九交響曲であった。フルトヴェングラーは、その3ヶ月後亡くなったので、最後の第九演奏、まさに「白鳥の歌」となった。

 のちにEMIがフルトヴェングラーのライヴ演奏をレコード化する際、この「ルツェルンの第九」とかの有名な「バイロイトの第九」と並べて、いずれを採るか検討した。結果、「ルツェルンの第九」は、歌手全員の同意が得られなかったとして退けられ、以後長らく幻のルツェルンの第九として埋もれてしまうことになる。実は、独唱者の一人、テノールのエルンスト・ヘフリガーが当日風邪気味で少々不本意な出来だったということらしい。

 デニス・ブレインは、ちょうど6年前の1948年8月22日と23日、ソロイストとして同じ舞台でパウル・ザッヒャー指揮のチューリッヒ・コレギウム・ムジクムとモーツァルトのホルン協奏曲第3番を吹いていた。

 また、今回は愛妻のイヴォンヌと二つになった長男のトニーが一緒だった。おまけに、趣味のモーター・スポーツで通じ合っていたヘルベルト・フォン・カラヤンが、自分のメルセデス・ベンツ300SLを貸してくれた。デニスは一家でこの「スイスで一番美しい町」を満喫できたに違いない。のちに、ブレイン夫妻はルツェルンを「第二の我が家」と呼んで懐かしんだという。

(参照CD) Tahra FURT1003 è1994


デニスとオルガンルツェルンの第九 ビーチャム・ブレイン・シュトラウス

 イギリスの名指揮者、サー・トーマス・ビーチャムは、リヒャルト・シュトラウスの交響詩《英雄の生涯》を十八番にしていた。1910年の大晦日のビーチャム交響楽団を皮切りとして、1932年10月7日、クイーンズ・ホールでのロンドン・フィルハーモニー管弦楽団の初演奏会や、1947年10月12日、ドゥルリー・レーン劇場でのロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団(RPO)によるシュトラウス音楽祭、2日目のプログラムの最後を飾っている。

 ビーチャム/RPOがこの音楽祭のあと、アビー・ロード・スタジオNo.1でこの《英雄の生涯》を録音した折のホルン・セクションの写真がデニス・ブレインの伝記に載っている。メンバーはこうである。

1st デニス・ブレイン、2nd イアン・ビアズ、3rd ロイ・ホワイト、4th フランク・プロビン、
5th エドムンド・チャップマン、6th マーク・フォスター、7th アルフレッド・カーシュー、8th H.ハミルトン

 ビーチャムの《英雄の生涯》 は、翌年、ひと悶着を起こす。それはフィルハーモニアとRPOの両方に在籍していたデニス・ブレインのロイヤリティーに関するもので、1948年12月のRPOイギリス国内ツアーを前に事件は起こった。ツアーのプログラムには例によって《英雄の生涯》 がトリに組まれていた。デニスはフィルハーモニアとの契約の関係上、ツアーには参加しないけれども、ツアー後のロンドンでの演奏会にだけ出演することになった。それまでもデニス不在時に代わりにトップを吹いていた、通常、第3ホルンのロイ・ホワイトがこれにクレームを付けた。どさ回りをせずに、メイン・エベントにだけ出られるのは我慢ならない、という訳だ。

 おかげでデニスはRPOを退団(1年後に復帰)する破目となる。この時、ビーチャムはこう語っている、「人々はこの私を見にくるのであって、あの抜け目のない若いホルン奏者ではない。」

(参照CD) Testament SBT 1147 è1998 ,Biddulph WHL 056 è1998


ビーチャム・ブレイン・シュトラウス デニスとオルガン

G.D.カニンガム デニス・ブレインは、王立音楽院でホルンを父オーブリー・ブレインに学んだが、所謂副科目としてオルガンをG.D.カニンガムに学んだ。実はカニンガムは、40年程前にデニスの伯父アルフレッドにピアノを教えており、デニスにも親身になって教授した。

 デニスはいつも父はホルンを如何に吹くかを教えてくれたが、カニンガムは如何に音楽を演奏するかを教えてくれた、と語ったという。事実ホルンの卒業証書のほか、オルガンの科目でも銅メダルを取ったから、副業の方もかなりの腕前だったに違いない。その後、デニスは多くの友達の結婚式でオルガンを演奏したし、ホルンよりオルガンの方が好きなのに弾く時間が殆ど無いことをよく残念がった。

 これを聞いたEMIのプロデューサーでかつフィルハーモニア管弦楽団の創設者兼音楽監督のウォルター・レッグは閃いた。次のカラヤンとのマスカーニの歌劇《カヴァレリア・ルスティカーナ》 の間奏曲 a の録音でオルガンにデニスを起用しようというのだ。嬉しがるデニスと面白がるカラヤンの努力によって1954年7月24日、録音は見事に完了し、「オペラ間奏曲集」と銘打たれたアルバム(英コロンビア33CX1265)の第一曲を飾ることになる。

 もう一つ、デニスは1956年11月13日、ホフナング音楽祭にて旧友マルコム・アーノルド作曲の《大々的序曲》 b のオルガンパートを弾くという芸当をやってのける。父モーツァルトの協奏曲をあのゴムホースで吹く前にである。

(参照CD) a : EMI CDM 5 66603 2 è1998 b : EMI CMS 7 63302 2 è1989


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Last updated 2000/09/30