デニスのお気に入り グイド・カンテルリ抄イヴォンヌ夫人

 デニスとイヴォンヌが王立音楽院で最初に「お茶」したのが1944年。ピアノ科のイヴォンヌ・コールズのところに、卒業生のデニスはせっせと通った。以前イヴォンヌの先生のハロルド・クラックストンの授業を取っていた伴奏者で後輩のデニス・マシューズから彼女のことをちょっと訊いていて、音楽院の玄関で見初(みそ)めた。1年後の1945年9月8日、デニスとイヴォンヌは彼女の実家のあるハンプシャー州、ピータースフィールドで結婚する。

 イヴォンヌは、ロイヤル・フィルハーモニーの米国ツアーに名クラリネット奏者、ジャック・ブライマー夫妻と同行した時の思い出を語る。「とても楽しかったですよ。あちらこちらの町に行きましたし、戦争中は頂けなかった食べ物もたくさんにね。もちろん、オーケストラもね。」また、フィルハーモニアのツアーにもたいがいトニー(1952年生)とサリー(1955年生)を連れて行った。

 デニスとの短い結婚生活において、暇な時間はあまりなかったが、いつも夫妻はデル・マー夫妻とブリッジをすることに決めていた。デニスは、家の修理のほか、いまや伝説のカーキチで車いじりをよくやった。これがいつも問題なのだが、イヴォンヌは「夫はメカにとても強かったわ」と話す。

 デニスが出演したBBCのラジオ番組「無人島レコード」を聞いた人はお分かりだろうが、二人の趣味としての音楽は、必ずしもクラシックではなく、フランク・シナトラの大ファン。デニスの名演奏に、イヴォンヌはモーツァルトやリヒャルト・シュトラウスといったあたり前の曲よりも、むしろエリック・ロビンソン・オーケストラとの《熊んバチの飛行》 や1956年11月、ホフナング音楽祭で大ウケした水撒きホースによるレオポルト・モーツァルトのアルプホルン協奏曲をあげる。

 「デニスはあまり練習(practising)はしないけれども、実際すごく吹いて(playing)いましたね・・・」デニス・ブレイン管楽五重奏団のメンバー、兄レナード(オーボエ)、トム・ワイトマン(バスーン)、スティーヴン・ウォータース(クラリネット)、ガレス・モリス(フルート)そしてデニス・ブレイン(ホルン)はロンドン郊外、フログナルにある広いヴィクトリア朝風のデニスの自宅で稽古したものだ。

 珍しく暇な日のこと、デニスが庭いじりをしていると電話が掛かってきた。イヴォンヌが出ると、地方のあるアマチュア・オーケストラからでホルンが一人足りないのでなんとか出て貰えないか、との依頼(この国最高のホルン奏者に!)。「デニスを庭から呼ぶと、出かけましたね。ことデニスに関しては、彼は自由であり、必要とされました。もちろん、それがデニスなんです。誰でも助けようとするんですよ。」

 このイヴォンヌの話は、デニス・ブレインの愛すべき一面をよく表している。「私は本当にとても良い人と結婚しました。ユーモアがあって、見ているこちらも笑えてくるんです。とってもハッピーな人で、やること、なすことそんな感じで。いまどき珍しい爛漫で無邪気な人で、仲間のホルン吹きと張り合うこともないし。ともかく皆さん主人が大好きでしたもの。」

 「主人に触発された方もいらしたわ・・・」ブリテンのセレナードと《なお雨は降り落ちる》 、ヒンデミットの協奏曲、マルコム・アーノルドの協奏曲第2番、アーネスト・トムリンソンのロマンスとロンドなどなど。「主人はゴードン・ジェイコブ(のホルンと弦楽のための協奏曲)がとても好きでした。」デニスのところには頼んでもいないのに、熱心な作曲家から沢山の作品が送ってこられた。たいていはあまり価値の無いものだったが、デニスはいつも試し吹きをした。

 デニス・ブレインは、もはや伝説の人。その伝説のいくつかは、たぶん作り事だとイヴォンヌは言う。本当にヘルベルト・フォン・カラヤンとのモーツァルトのホルン協奏曲のレコーディングで譜面立に自動車雑誌を置いていたか、という問いにイヴォンヌはとまどいを見せた。「確かに練習に雑誌を持っていきました。休憩以外ではけっして読まなかったでしょうし、ほかではともかく、そういう特別なときにはどうかと思いますよ。」

 「話は話としておきましょう。それでみんなデニス・ブレインを好きになったんですもの。もっとお知りになりたい方は、残念ながらいま絶版のスティーブン・ペティットの伝記をお読み下さい・・・1950年代は素晴らしい時代でした。戦争後が終わって、軍隊からたくさんの優秀な演奏家が出ましたもの。デニスは代表的な一人ですわ。どうか、主人の不時の事故の暗い面ではなくて、ホルンの演奏にもたらした喜びを忘れないで下さい・・・」

 以上、英国ホルン協会発行『ホルン・マガジン』1993年冬号掲載のイアン・ワグスタッフのイヴォンヌ・ブレインとのインタビューより引用した。ジェイコブの協奏曲は、デニスのスタイルを忠実に再現したヘルマンソン盤 * が素晴らしい。

(参照CD) * BIS CD-376 è1987


ティル・オイレンシュピーゲルイヴォンヌ夫人デニスのお気に入り

 1945年8月30日、ロンドン、ユーストン・ロードのフレンズ教会に51名の楽員が集まった。その8割が英国陸軍や空軍の兵隊である。ここでHMV戦後初のフルオーケストラによるチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番(独奏ベンノ・モイセイヴィッチ、指揮ジョージ・ウェルドン)のレコーディングが行われる。録音簿のオーケストラ名は、まだデビュー前の仮称「フィルハーモニア交響楽団」。第1ホルンは、デニス・ブレインである。

 セッションの合間、プロデューサーのウォルター・レッグのところに紅潮した顔のデニスがやってきた。「上手く行きそうですね。このオーケストラはきっと今まで最高ですよ。」 実は、デニスはモイセイヴィッチのミーハーといってもいいほどのファン。のちにBBCのラジオ番組「無人島レコード」でこの辺りを語っている。

 「 私が20歳の頃でしたが、敬愛するピアニストのモイセイヴィッチの演奏会に出ました。私はサインが欲しくて楽屋に行きました。その2年後の演奏会で、今度は友達がサインを欲しがったので、彼にまた頼みました。彼は私の顔をあの無表情な顔でじっと見つめると、『最初のは気に入らなかったのかね?』 と訊ねました。」(笑)

 モイセイヴィッチ(1890‐1963)は、現在のウクライナはオデッサに生まれ、当地の帝室音楽院に学び、9歳でアントン・ルビンシュタイン賞を得た早熟の天才。幼少ながら音楽に関する独自の強い考えを持っていたため、家族や教師には無愛想な子供だった。おまけに手に負えない悪戯好きときたため、ある時、その悪戯を告げ口されて即退学させられてしまった。

 1905年、ロンドンの兄たちを頼ってギルドホール音楽学校にやらされたが入学を許されず、結局、ウィーンのセオドア・レシェティッキーに師事して花開いた。1908年、イギリスのレディングでデビュー、1919年から欧米に楽旅、さらに1927、1928、1932年と3回来日し、「未完の大器」 などと評された。のちの1937年、イギリスに帰化している。

 そんなモイセイヴィッチが、第二次大戦中、ロシア援助資金募集のために100回以上のチャリティー・リサイタルを行ったり、ENSA(Entertainment National Service Association)の活動の一環として、ソロモンやジョン・バルビローリらとともに戦地慰問演奏にしばしば赴いた。苦境の二つの祖国を今度はひたすら支援したというわけだ。

(参照CD) Appian Publications & Recordings APR 5518 è1996


ウィリーの目 デニスのお気に入りティル・オイレンシュピーゲル

ティル・オイレンシュピーゲル 1939年2月16日、ロンドン、アビーロード・スタジオ。無人のはずのスタジオから、あの《ティル・オイレンシュピーゲル》 のユーモラスな第一主題が聞こえてきた。のぞいてみると、ホルンを抱えた無邪気な顔をした少年が一人で立っていた。 私は耳を疑って訊ねた。「今吹いていたのは君かい(Was that you playing)?」 彼は顔を赤らめながら、「はい、僕の父はオーブリー・ブレインです。(Yes,Aubrey Brain is my Dad.)」 と答えた。彼はモーツァルトのディヴェルティメントニ長調(第17番K334)を父と レナー弦楽四重奏団と録音しに来たのであった・・・。 これは英グラモフォン誌の1957年11月号にウォルター・レッグが寄せたデニス・ブレインの追悼文における17歳(原文では16歳)のデニスとの鮮やかな出会いを描いた部分である。

 この日本ではリヒャルト・シュトラウスの音楽ばかりが有名だが、本家のドイツでは主人公のティル・オイレンシュピーゲル(?-1350)は小さな子供でも知らぬ者はいないほどの人気者であるらしい。ドイツ民衆本の表紙でティルが両手にオイレン(梟)とシュピーゲル(鏡)を掲げているのも面白い。得意技は綱渡りだそうな。

 1951年12月4日、キングスウェイ・ホール。ヘルベルト・フォン・カラヤンとフィルハーモニア管弦楽団による《ティル・オイレンシュピーゲル》 のレコーディング・セッションの時の様子がデヴィッド・ウルドリッジの『名指揮者達』(小林 利之訳、東京創元社、1981年)に出てくる。

 テイクの最後でコンサート・マスターのマヌー・パリキアンがソロの高い変ホの音を外してしまい、オーケストラはちょっと気まずい雰囲気に包まれた。カラヤンは一瞬黙っていたが、指揮棒を置くとパントマイムをやりはじめた。

 天井の梁を探して、目に見えぬロープを投げ上げる。落ちてきたロープを掴んで器用に結び目を作ると、それをティル・オイレンシュピーゲル氏ことパリキアンの方へ、とっておきの微笑を浮かべながら投げ与えた。 オーケストラの一同は、ここにいたってドッと爆笑し、その場の緊張は解けた。・・・ 

(参照CD) EMI CMS 7 63316 2 è1990,東芝EMI TOCE-5976/79 è1990


オーケストラの魔術師ティル・オイレンシュピーゲルウィリーの目

 1952年5月、ヘルベルト・フォン・カラヤンはフィルハーモニア管弦楽団を率いて初めてのヨーロッパ演奏旅行に出かけた。特に、ミラノでの演奏会は大成功で、当時のスカラ座のシェフ、ヴィクトル・デ・サーバタが豪勢な夕食会を開いてくれ、その席でウォルター・レッグに「あなたのオーケストラはイギリス一の素敵な乙女ですな。女としての成熟を果たすのに必要なことはただ一つ、血の気の多いイタリア男にレイプされることです。あなたのために私がそれを引き受けましょう。」と囁いた、とは有名な話。

 また、大ヴァイオリニストのヨーゼフ・シゲティがある演奏会を聴いて、「フィルハーモニアはヨーロッパで初めて完璧な室内楽的演奏といった全ての特質が大交響楽団の掌中に入ったことを示した。」と賛辞を寄せた。

 ところが、次の公演地のウィーンっ子たちは、とても冷ややか。なにしろコンサート・マスターのマヌー・パリキアンが、演奏会の後でホッフハウス・レストランにおける不意の集いに行ったところ、ウィーン在住の名手から借りたヴァイオリンで《ツィゴイネルワイゼン》 を即興で弾かされ、それによってオーケストラの名声を支えることを強要されたぐらいであった。ウィーン・フィルハーモニーのコンサート・マスター、ウィリー・ボスコフスキーの批判的なまなざしを浴びながらの話である。

 かたやデニス・ブレイン。トスカニーニとの日の後、ちょっとお祝いをとなり、レッグは3人をウィーンの超一流レストランのディナーに連れていった。最高のウィーン料理の三大コースの後、デニスはデザートを何にするかを聞かれた。彼はまじめくさった顔で答えた、「ここにはバター付きパンプディングは無いだろうなあ。」


魔法の棒弓ウィリーの目オーケストラの魔術師

 第二次世界大戦中、デニス・ブレインはイギリス空軍中央音楽隊the Central Band of Royal Air Forceに入隊した。そのときいまなお伝わっている有名な話がある。RAFの1944年、合衆国演奏旅行でのこと、たまたまそれを聴いたレオポルド・ストコフスキー(1882-1977)が、すっかりデニス・ブレインに惚れこみ、戦争が終わったらぜひフィラデルフィア管弦楽団の首席ホルンに来てくれと、頼み込んだというのである。

 実は、ストコフスキーは、1938年、26年間務めたフィラデルフィア管弦楽団の常任指揮者を辞任、1940年、全米青少年管弦楽団を設立したもののアメリカの戦争参加により頓挫。陸軍の軍楽顧問やトスカニーニのNBC交響楽団への客演の後、1944年、ニューヨーク・シティー交響楽団の設立に動いていた。

 おまけに、フィラデルフィア管弦楽団には、1938年、ウィリアム・キンケイド(Fl)やジョン・デ・ランシー(Ob)らと並び「フィラデルフィアの管」を代表する名人となるメーソン・ジョーンズ(b.1919)が入団、翌年には首席ホルン奏者になっていた。つまり、フィラデルフィアのホルンは、既に安泰であったのである。その上での発言であった。

 1947年、ストコフスキーは、アルトゥール・ロジンスキーの後を受けてニューヨーク・フィルハーモニックの首席指揮者となるが、その地位も1950年にディミトリ・ミトロプーロスに明渡した。翌1951年、母国イギリスに初めて客演、4月から6月にかけてと8月にロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団(RPO)と大巡業を行った。

 この最中、生まれ故郷ロンドンでフィルハーモニアと一曲だけ彼の十八番、《シェヘラザード》 を録音する。当然、力が入った。まず、録音に先立ってホテルの部屋にいちいち首席奏者を呼び寄せては、腕試しを行った。キングズウェイ・ホールでは、マイクロフォンの位置にあれこれと注文を付けた。極めつけは、オーケストラの真中に設(しつら)えられた椅子。ソロをとる楽員達は、それをホット・シート(電気椅子!)と呼んでいた。

(参照CD) Testament SBT 1139 è1998


男の本懐オーケストラの魔術師魔法の棒弓

 神童と謳われた渡辺茂夫(1941-1999)よりも5歳年長。同じジュリアード音楽学校でイヴァン・ガラミアン門下のヴァイオリンの寵児、マイケル・レビンの名前が最新版のニューグローヴ音楽辞典から消えた。しかし、彼の米コロンビア初期録音集のCD復活(Sony Classical MHK 60894)にロンドンっ子は、敏感に反応した(HAROLD MOORES RECORDS 1999年7月度、月間売上ベスト9位)。イギリスもレビンのことを忘れていなかった。

言葉
レビン 大きくなったら、ハイフェッツのようにヴァイオリンを弾くんだ(ミッシャ・エルマンに将来を尋ねられて)
ロス
パーメンター
完成した芸術家が、まさに優雅な美音で弾いた(デビュー演奏会のニューヨーク・タイムズ評)
ディミトリ
ミトロプーロス
すでに大芸術家に必要なものを全て備えた明日の期待の天才ヴァイオリン奏者
ジョージ・セル このニ、三十年間で私の注目した最も偉大なヴァイオリンの才能
クラウディア
キャシディ
レビンを聴き、神々がヴァイオリンをお忘れでないことを知る(シカゴ・トリビューン紙、音楽評論家)
オリン
ダウンズ
輝かしい将来を持った素晴らしい才能のヴァイオリン奏者(ニューヨーク・タイムズ、同)
*** 戦後の器楽の神童。(アメリカン・レコードガイド1951年3月号)
イヴァン
ガラミアン
(特別思い入れのある弟子を尋ねられて)マイケル・レビン。並外れた才能。弱さなど全く無かった。
ヤッシャ
ハイフェッツ
マイケル・レビンは、自分のガルネリにF字孔から内部を掃除するために、米をたくさん注ぎ込む。
何回かゆっくり揺らすと、中にこびりついていた埃と樹脂が米といっしょに出てくるんだ。

録音
 アメリカの演奏家に持っている先入観は、レビンの演奏には全く当てはまらない。なかでも白眉なのが、1954年、当時レビン18歳のEMI初録音のパガニーニの第1番。 曲は、全編ヴァイオリンの技巧と美しい音色が切れ目無く続き、ソロヴァイオリンは歌いっぱなしで、オーケストラも丁々発止の合いの手を入れ、盛り上げに盛り上げる。

 もう一つが、1956年録音のチャイコフスキー。ソロが弾き捲くれば、オケも燃えに燃えた。終楽章、コーダに入るところで少しカットがあり、あっと驚かされるがさらにデニス・ブレインたちのホルンの合いの手の音が割れるのにもっと驚かされる。フィルハーモニアのこれ程興奮度の高い演奏を私は他に知らない。

(参照CD) EMI Electrola CMS 7 64123 2 è1991


ヤング・レニー魔法の棒弓男の本懐

 ワルター・ジュスキントは、1913年プラハに生まれ、同地の音楽院でピアノ、作曲、指揮を学んだ。20歳の時、プラハ・ドイツ歌劇場でジョージ・セルの副指揮者となり、1934年、《椿姫》 でデビューした。

 当時のチェコスロヴァキア共和国には、悲惨な運命が待ち受けていた。ズデーデン地方ドイツ人の民族自決権問題に端を発して、ナチス勢力が拡大・先鋭化、1938年のドイツ・オーストリア併合を機に、チェコ国内では、チェコ・ドイツ両民族が大衝突、翌年のドイツ軍プラハ入城以降、チェコ人は艱難辛苦を舐める。占領ドイツは、チェコの知識人と反ナチスの人々を一掃、非ドイツ人同化と称して一般市民を容赦なく逮捕・拷問、強制収容所に連行した。ジュスキントは、ドイツ歌劇場の閉鎖後、ナチスの手を逃れてイギリスに亡命する。

 彼は戦時中、ENSA(Entertainment National Service Association)のメンバーとして活動、デニス・ブレインと同様の経緯でウォルター・レッグのフィルハーモニア管弦楽団の創設に関係する、いわば「生え抜き」となった。1945年のジネット・ヌヴーとのシベリウス、1950年のヤッシャ・ハイフェッツとのチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲などは重要な録音である。だが、ヘルベルト・フォン・カラヤンは言うに及ばず、ギド・カンテルリやイゴール・マルケヴィッチらEMIのスター指揮者が、膨大な管弦楽曲の録音を残したのに対し、ジュスキントは1956年のグリーグの《ペール・ギュント》 第一、第二組曲 * を例外として、所謂「合せ物」指揮者のレッテルが貼られた。不本意だった。

 イギリスに帰化、スコティシュ国立管弦楽団の主席指揮者を務めたものの、ジュスキントはこの第二の祖国も離れ、メルボルンのヴィクトリア交響楽団(1953-55)、トロント交響楽団(1956-65)、セントルイス交響楽団(1968-75)、さらにトマス・シッパースの死を次いでシンシナティ交響楽団の音楽監督(1979/80)を歴任、1980年3月、カリフォルニア州バークレーで亡くなった。

 ジュスキントのフレキシブルな指揮は、プラハ時代のジョージ・セルに負うところが大きく、二人は造形美術を共通の趣味とし、生涯友情で結ばれていたという。

(参照CD) 新星堂 SAN-17 è1991 *


記念写真男の本懐ヤング・レニー

 フィルハーモニア管弦楽団の黎明期、1946年7月1日、アビー・ロード・スタジオ、27歳のレナード・バーンスタイン初の「弾き振り」によるラベルのピアノ協奏曲ト長調のHMV録音がある。いったい、どういう経緯の録音なのだろう。

 同年6月始め、ニューヨーク・シティー交響楽団の音楽監督バーンスタインは、アメリカン航空機上で胸を膨らませていた。二度目のヨーロッパ訪問の行き先は、先の世界大戦での最大の同盟国イギリスだし、5月には解放一周年で沸き立つ「プラハの春」のアメリカ音楽フェスティバルで絶賛されたばかりだった。

 ところが、ロンドンに彼のアメリカでの評判は、まだ伝わっていなかった。ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団との6回の演奏会が予定されたが、記者会見やパーティも一切無く、まともな練習場にも事欠いた上、耐乏生活と季節はずれの寒さで発熱してしまった(ペニシリンの力を借りて臨んだ演奏会は、成功に終わる)。

 フィルハーモニアの方は、5月に最初の大物演奏家アルトゥール・シュナーベルとの協演を済ませたが、最初の大録音と言われるジネット・ヌヴーとの録音はまだこれからという頃。デニス・ブレインは、まだ正式には空軍軍楽隊(RAF)に所属していた。とにかく、こちらは大勢の元コンマスとRAFの若手名人が揃っている。

 バーンスタインは、この時期RCAビクター専属アーチストで、RCAは彼のロンドン・デビューに合わせた録音をアレンジした。曲は、バーンスタインがアメリカで既にさんざん弾いていたものが選ばれた。たった一曲を一日で収録されたSPレコード3枚は、アメリカでだけ発売された。第一楽章のホルンの超高音のソロが素晴らしい。

(参照CD) BMG 09026-61650-2 è1993


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Last updated 2000/11/03