第九、ウィーン録音オーブリーと息子リヒャルト・シュトラウス音楽祭

 リヒャルト・シュトラウスは1933年、ナチス・ドイツの音楽局総裁に祭り上げられたが、政府と対立して1935年、早くも辞職してアルプスの麓にあるガルミッシュ・パルテンキルヘンの山荘に隠棲した。1945年、祖国ドイツの崩壊を嘆いてベートーヴェンの交響曲《英雄》 の葬送行進曲を引用した弦楽器のための《メタモルフォーゼン》 を作曲、珍しく自らの気持ちを露(あらわ)にした。

 戦後、ナチス協力に関する裁判では無罪となったが、その疑いを晴らすためのいかなる弁明をも頑強に拒んだため経済的にも困窮していた。

 1947年春、楽界の大立者サー・トーマス・ビーチャムが秋に芸術家仲間であり、積年の友人であるリヒャルト・シュトラウスをロンドンに招き音楽祭を興行するという驚くべき噂が流れた。ビーチャムが音楽祭を主催する目的は、かなりの人が既に亡くなったと考えているこの作曲家を復権させ、窮乏した彼のためにそれまで「外国人」に対する支払い禁止令により手に入らなかった作曲に対するローヤリティを集めることだった。

 これはEMIのプロデューサーにしてフィルハーモニアのオーナー兼芸術監督のウォルター・レッグにとって大変なスクープだった。しかもシュトラウス自身、一度だけ演奏会を振るというので、レッグは腕利きの部下、ジョーン・イグペン女史を送りフィルハーモニアへの独占出演契約を結ばせた。しかしながらシュトラウスは続く10月29日のBBC交響楽団との演奏会で一曲だけ《ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯》 を振ることも決まった。

 シュトラウスは広大なロイヤル・アルバート・ホールにおけるプログラムのメインに《アルプス交響曲》 を望んだ。しかし演奏会の行われる10月19日はクロイドンのデーヴィス劇場で行われるビーチャムとロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会(ベートヴェンの《英雄》 ほか)とかち合っており、いかに辣腕のレッグとて、ヘッケルフォン(注)やテナー・チューバ4人、舞台裏のバンダに12人のホルンを用意することは不可能だった。本意ならずもメインの曲は《家庭交響曲》 に変更された。

(注)ヘッケルフォン
ドイツの木管楽器製作者、ウィルヘルム・ヘッケル(1856〜1909)が息子のウィルヘルム・ヘルマン(1879〜1952)の協力を得て設計、開発したファゴットとコーラングレの中間の音域をもつ一種のオーボエ。円錐腔の開いた木製の胴をもち、その先に球形の朝顔がついている。金属製の湾曲した吹き口の先には、ファゴットに似た2枚のリードがついている。 ヘッケルフォンは1905年、リヒャルト・シュトラウスのオペラ《サロメ》 に登場したが、その後広い人気はついに得られなかった。

 ナチス協力者のレッテルを貼られたドイツの作曲家を戦後間も無いロンドンに連れてくることは大きな賭けだったが、その賭けはうまく当たった。老作曲家はその年齢にも拘わらず素晴らしく元気で、新聞記者にあなたは本当にワルツ《美しく青きドナウ》 の作曲者ですか?と何度も質問されても、ニコニコと訂正したのである。

 10月5日、デュルリー・レーン劇場(ロジャース・アンド・ハマースタインのミュージカル《オクラホマ》 が大当たりを取ったところ)での開幕演奏会は大成功で、ビーチャムの勝ち誇った光景が繰り広げられ、いまだ戦争による耐乏生活を強いられていた人々の魂を震わせた。《ドン・キホーテ》 のソロはまだデビューしたてのフランスのチェロ奏者、ポール・トルトゥリエが弾いた。音楽評論家、ネヴィル・カーダスは次のように論評している。

日曜日のデュルリー・レーン劇場の特別席に入ったリヒャルト・シュトラウスはロンドンの聴衆に暖かく迎えられた。シュトラウスは83歳ながら、かくしゃくとしたもので、その白髪はさっぱりと着こなされた夜会服にぴったり。サー・トーマス・ビーチャムは《ドン・キホーテ》 を素晴らしいニュアンスで振り、少しのミスも無かった。

 フィルハーモニアのメンバーたちはシュトラウスとの初めての共演を心待ちにしていた。彼らの多くはロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団のメンバーを兼ねており、デュルリー・レーン劇場における演奏会ためのリハーサルを経験していた。その時シュトラウスは皺くちゃのレインコートを着て、楽員の間をあちこち巡っては身振り手振りを交えながら言葉をかけた。

 リハーサルは最初《ドンファン》 から始められた。コンサート・マスターのトム・カーターにオケが《ドンファン》 を知っているかと尋ね、既に昨年8月、アルチェオ・ガリエラの指揮で録音したと聞くや、ただ1回通すだけにした。《家庭交響曲》 の場合は楽員のほとんどが曲を全く知らなかったので、3回のリハーサルでは多くの時間をこの曲に費やし、辛抱強く教え込んだ。

 彼はピアニストのアルフレッド・ブルーメンにも相当の報酬が入るよう、ピアノと管弦楽のための《ブルレスケ》 も取り上げた。ブルーメンは既に2度、シュトラウスとウィーン・フィルハーモニーのツアーで弾いていた。そのリハーサルはさらに厳しく、シュトラウスはブルーメンに早く弾きすぎると注意したが、ブルーメンはオケに1930年代には付いていくのがやっとだったのに、とこぼした。(シュトラウスの指揮は所謂「シュトラウス・テンポ」と言って快速なことで有名。)

 10月19日、舞台にはフィルハーモニアと大勢のスター・エキストラが集められた。クラリネット・セクションにはレジナルド・ケル(第1変ロクラ)、フレデリック・サーストン(第1イ調クラ)、ウォルター・リア(バス・クラ)、ジャック・ブライマー(第1変ホクラ)といった名手たちがずらりと並んだ。ゲネプロでシュトラウスは《ドンファン》 のリハーサルが足りないことに気付いた。そこでコンマスのトム・カーターにただの一言だけ――「今夜は私をよく見るように」

 満員の7千もの聴衆で埋め尽くされたロイヤル・アルバート・ホールの舞台裏、シュトラウスはいよいよ舞台に出るという時に有名な言葉を残している――「さて、老馬再び厩(うまや)を出ずか」

 老作曲家が大編成のオーケストラの中を縫うようにして、足を引きずりながら登場すると、満員の聴衆は一斉に拍手して迎えた。元気な姿を見るだけでも全く驚くべきことだったが、シュトラウスは終始立ったままで、例によって左手をチョッキのポケットへ入れ、もっぱら右手のみで小さいがしっかりとした指揮をした。

 フィルハーモニアにとってこの演奏会は貴重な体験であり、物凄い興奮と至福の入り混じったものだった。当夜の聴衆にとっては20世紀の偉大な作曲家の一人が自作を指揮する姿を見る最後の機会だった。演奏が終わってシュトラウスとオーケストラが舞台を下りてからも拍手喝采が鳴り止まない。

 BBCはビーチャムとロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団による《エレクトラ》 のスタジオ演奏を二回にわたって放送した。主なキャストは当時コヴェント・ガーデン歌劇場に出演中のドイツのメゾ・ソプラノ、エリザベート・ヘンゲンやブルガリアのソプラノ、リューバ・ヴェーリッチ。

 この音楽祭にはフィルハーモニアとロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団のホルン奏者から指揮者に転進したノーマン・デル・マーが登場する。デル・マーは後にリヒャルト・シュトラウスの生涯と音楽についての3巻の著作で音楽祭の思い出を語っている。

シュトラウスは《エレクトラ》 のスタジオ演奏が終わったあと、ビーチャムを抱きしめた。その時、私は初めてビーチャムがとても小さく、またシュトラウスがとても大きいことに気がついた。

 ビーチャム、当時68歳。背筋痛と痛風を患っていたにも拘らず、極めて健康そうに振る舞い、そのためか指揮台では実際より背が高く見えた。そんな印象を拭い去ったのが本当に背の高いシュトラウスだった。83歳の最後の偉大なるドイツ・ロマン主義作曲家は、その2年後に亡くなった。

(参照CD)《エレクトラ》 (BBC放送録音) Myto MCD 981H004 è1998


グイド・カンテルリ抄リヒャルト・シュトラウス音楽祭第九、ウィーン録音

 1955年7月、ウィーン、ムジークフェラインザール。音響効果はヨーロッパ中で一番良いとされるこのホールにヘルベルト・フォン・カラヤンとロンドンからフィルハーモニア管弦楽団がやって来た。EMI(コロムビア)による6日間に亘るベートーヴェンの「第九」の録音が始まった・・・

 実はカラヤンのこの種の試みは今回が初めてではない。バッハのロ短調ミサ曲を1952年11月、場所も同じこのムジークフェラインザールで、ウィーン・フィルハーモニー、ウィーン楽友協会合唱団と収録後、翌年7月16日、クオニアムのホルン・ソロはデニス・ブレインで、といった具合にソロ・パートのみフィルハーモニアの首席奏者達とアビー・ロード第1スタジオで録音していた。

 また「第九」は、1949年11月、ロイヤル・アルバート・ホールでのフィルハーモニアとの2回目の演奏会で指揮したが、その時のBBC合唱団の出来にはカラヤンもウォルター・レッグも不満足だった。コーラスはやはりウィーン楽友協会合唱団が一番いい・・・

 ムジークフェラインは残響が2秒を超えるため、ホールの3分の1位のところに2階から夥(おびただ)しい布がかけられている。カラヤンはあらゆる部分で10秒か20秒くらい音を出しては、録音室に行って音を聴いて帰って来る。そしてやり直す。これを繰り返す。テープの編集で繋げようという訳だ。

 またカラヤンは録音の最中、ドアが開けられるとあの端正なマスクからは想像もできないしわがれ声で怒った。ドアを開けて空気が入れ換わると管楽器のピッチが狂うという。

 第2楽章を聴くと明らかなように、カラヤンはフルトヴェングラーやベームと違いホルンが華々しく活躍するワインガルトナーの加筆版を使わない。ただ、第3楽章の長大な4番ホルンのソロはデニス・ブレインに吹くように指示した。

 この録音現場を食い入るように見つめる一人の日本人がいた。NHK交響楽団、首席フルートの吉田雅夫である。彼はこの夏、ウィーンでハンス・レズニチェクの教えを受けていた。「第九」は、昨年カラヤンがN響に客演した際、宝塚、名古屋、日比谷で演奏したばかりだった。

 帰国後、音楽評論家の村田武雄との対談(レコード芸術昭和31年12月号掲載『カラヤンの新しい「第九」はかく録音された―吉田雅夫さんのドイツ見聞録から―』)で当時の状況が語られている。

村田 フィルハーモニア管弦楽団の技量はどうですか?
吉田 これは確かに腕はいいのです。
村田 ただレコードを聴いていて、指揮者によって出来、不出来が多いのですね。
吉田 ああ、そうですか。
村田 均等に行かない。このフィルハーモニアの技量を発揮するのはやはりカラヤンが振ったときですね。
吉田 ああ、そうですか。僕は沢山レコードを聴いていないですけれど、ただやはり最高の実力をカラヤンのときに発揮するというのは、カラヤンの、何というか…。
村田 人間力ですか。
吉田 ええ。まあ、あらゆる方面から見た圧力ですね。怖いのですよ。一言でいっちまえば、恐ろしく怖いのですよ、カラヤンというのは。今殆どヨーロッパじゃ、カラヤンというのは音楽界のカイザーですよ。
村田 ところでそれに対して、非常にカラヤンを横暴で芸術家的じゃないという風な事をいう人もあるのですがね。
吉田 しかしやはりそこへ行くだけの力は持っているのでしょうね。
村田 近年のカラヤンは実に力がみなぎって来ましたからね。
吉田 そうとしか思えないですね。
村田 今カラヤンが常任で指揮しているのはどこなんですか。別にないようですが。
吉田 方々を飛んで歩いているわけですね。ベルリンはオーケストラのディレクターでしょう。それからスカラはドイツ・オペラのディレクター。フィルハーモニアは自分が作ったオーケストラでしょう。ムジークフェラインは終身ディレクターです。これはブラームスやマーラー級でしょう。ウィーン・オペラはゲネラル・ディレクターですね。だからもう殆ど最高の地位を占めちゃったようなものです。恐ろしい程です。
村田 カラヤン時代の感ありですね。
(中略)
吉田 このフィルハーモニアというオーケストラですが、これはブラスにとても名人が揃っているのです。ホルンにブレーンがいますね。それからトランペットはジャクソン、そういう人達が占めているのです。ですから「第九」のフィナーレあたりに来ると、そういうのが相当腕を発揮しているのが分かるのです。ところが木管は、僕の感じでは幾らか古いですね。例えばフルートなんかでも、全部木の楽器を使っているのですね。これは英国製の、ルーダルカルテという非常にいい会社のものなんですが、やはりちょっと今日のヨーロッパの標準からいうと、古い楽器なんです。大太鼓なんかも皮が片方しかないのを使っています。
村田 ああ、古い形のですね。もっともあの方がいいという人もありました。とくに録音には。
吉田 あれはレコーディングの場合に、妙な反響が残らないでしょう。そういう点で、楽器なんかは大変英国らしい古風な楽器ですね。それからこの演奏を聴いても、やはりフルート、オーボエ、バスーンと、皆いわゆる――何といったらいいかな…。
村田 華やかさはないがオーソドックスでしょう。
吉田 最もスタンダードなんですね。ですからよくいえばスタンダードで、模範になるのですけれども、悪くいえば特徴がないという結果が出て来るのじゃないですか。
村田 しかしそれも立派な行き方ですからね。
吉田 ウィーンのオーケストラですと、弦楽器が非常にきれいでしょう。それからパリでは管が何ともいえない。そういう特徴がこのフィルハーモニアにはちょっとないのじゃないかと思いますね。
村田 フィルハーモニアの編成は何人くらいですか。
吉田 弦が割合に少ない。そして女の人が多いのです。これはやはり吹込用ですから、馬力というよりも、正確にきれいな音を出すことを狙うと、必ずしも男でなくてもいいんだと思います。相当上のプルトに女の人がいます。チェロにもヴァイオリンにも。ちょっとびっくりしました。
村田 しかしフィルハーモニアは最近は定期もやっておりますね。
吉田 ああ、音楽会をどんどんやっているそうですね。僕の感じでは、恐らく英国最高のオーケストラだと思いますね。ほかに英国ではそれ程魅力のあるオーケストラはないような気がいたします。

(参照CD) 東芝EMI TOCE-11045/9 è1998


イヴォンヌ夫人第九、ウィーン録音グイド・カンテッリ抄

 グイド・カンテッリ(グィード・カンテッリ)のリハーサルCD(URN22.140)を聴いた。1949年、曲はチャイコフスキーの4番、オケは残念ながらNBC交響楽団。カンテッリの声はよく透るテノールでテキパキと指示を出す。途中である奏者が大きなクシャミをしてドッと笑い声が起きるがカンテッリはいっこうに意に介さず進める。ホルンは例のポーランド出身のシャープ兄弟で薄っぺらだが、分奏による第1楽章のコーダなど弦楽器の上手いのには舌を巻いた・・・

 1950年、カンテッリはスカラ座管弦楽団と共に初めてイギリスを訪れた。当時、スカラ座のシェフはヴィクトル・デ・サーバタだったが、カンテッリがエディンバラとロンドンで振ったチャイコフスキーの5番は大成功。HMVのプロデューサー、デヴィッド・ビックネルにとってこの曲の1日限りのレコーディングは賭けとも言えたが幸い2度のセッションで完了し、のちにEMI初のLPカタログ中のベストセラーとなった。

 そんなカンテッリをウォルター・レッグがフィルハーモニアの客演に招かない訳がない。1951年9月と10月、カンテルリはロイヤル・フェスティバル・ホールにおける5つの演奏会でフィルハーモニア管弦楽団を初めて指揮した。ビックネルはこの機会にカンテッリが演奏会で振った曲目のレコーディングを試みた。 1951年10月12日、最初のアビーロード第1スタジオにおけるメンデルスゾーンのイタリア交響曲の録音はカンテッリが演奏、解釈とも納得せず廃棄処分となった。

 翌13日のチャイコフスキーの《ロミオとジュリエット》 は驚異的な出来栄えだった。ところが次のラヴェルの《ラ・ヴァルス》 のリハーサルの最中に、一人のコントラバス奏者がセッションに遅刻した。慌てた彼は楽器を正しくチューニングできず、そのために続くテイクが台無しになってしまった。怒ったカンテッリはスタジオから出ていってしまい、とりなす術(すべ)も無くなった。

 そこでビックネルは事態の収集を図った。彼はこれ以上ラヴェルの収録は無理と考え、カンテッリに演奏会のもう一つの曲目《ジークフリート牧歌》 a をやってみないかと持ち掛けた。《ラ・ヴァルス》 の奔放な力とは対照的に、《ジークフリート牧歌》 の静謐さはカンテルリの心をすっかり癒したように思われた。しかしカンテッリの求めるものは相変わらず極めて高く、彼が満足するまで何度もテイクが繰り返された。主席ホルンのデニス・ブレインはソロのパッセージを何度も繰り返しやらされて、へとへとだった。事実、セッションが漸(ようや)く終わったときに「もうまっぴら御免だ(Never again)」と言い残したという。

 フィルハーモニアの楽員達のカンテッリに対する態度は様々で、幾人かの奏者はカンテッリの発するストレスと緊張を認めながらも、その優れた才能を理解していた。一方で、例えば主席フルートのガレス・モリスなどはカンテッリのことを陰で「あの小僧(The Little Boy)」と呼んでいた。

 1952年9月と10月、カンテッリはフィルハーモニアの演奏会とレコーディングのために再度ロンドンにやってきた。また彼の偉大なる擁護者、アルトゥーロ・トスカニーニの演奏会のリハーサルも手伝った。チャイコフスキーの第6交響曲とラヴェルの 《亡き王女のためのパヴァーヌ》 b などが演奏会の行われたロイヤル・フェスティバル・ホールで録音された。後者は演奏時間6分ばかりの比較的シンプルな曲であるにも拘らず、なかでもハープに関して何度もリハーサルを重ねられた。しかしカンテッリの要求するオーケストラのバランスが得られない。ついには緊張と不満がつのりにつのって、ステージから飛び降りて指揮者控え室に退き込んでしまった。

 マエストロに一度ならず激怒されたハープ奏者のレナータ・シェッフェル=スタインが涙ながらに舞台裏のカンテッリのところに直すべき点を聞きに行くと、カンテッリはこの音楽を演奏すると12歳で亡くなった甥のセルジオのことを思い出して大変悲しくなるのだと話したという。カンテッリの特異な性格を物語る話である。20回に及ぶリハーサルの末に録音は完了したが、ここでもデニスは、もうこれ以上吹けないと感じられるまで高音のホルン・ソロを何度も吹かされた。カンテルリは並外れた完璧主義者でどんなに難かしくとも楽員達に完璧を要求した。カンテッリは楽員に才能を認められていたものの、まだこの段階では彼らの心を掌握しているとは言えなかった。

 翌1953年5月には先の二度と同様、四つの演奏会からの曲目のうちシューマンの4番とブラームスの1番が録音された。この頃カンテッリはスカラ座、NBC、フィルハーモニアに加えて、ニューヨーク・フィル、ボストン交響楽団、フィラデルフィア管弦楽団、シカゴ交響楽団、ウィーン・フィルなどに招かれており、世界中で活躍する一流指揮者の一人と目されていた。

 フィルハーモニアとカンテッリの関係は1954年も続いた。5月のロンドンと9月のエディンバラでは初めてドビュッシーの作品が演奏された。そのレコーディング・セッションに居合わせた指揮者のチャールズ・ジェラードが回想している。「カンテッリは私の見た45分間に一度も譜面を見なかった。ともかくあの難しいスコアを彼はすべて覚えていた。途中で作品について考えたりスコアを捲(めく)ったりもしない。ともかくバランスと和音をつけ続けていた。ある管楽器に和音を吹かせ、次にホルンという具合で45分の間、弦楽器は一音も弾かなかった。でも楽員達は魅了されていた。カンテッリは自分のやろうとしていることに本当に真剣で夢中の指揮者。私はそんな彼の姿に見惚れました。」

 レコーディングはそれ自体相当緊張を要する作業である。しかしカンテッリは録音メディアに対して一切譲歩せず、「録音技術は音楽の下僕(しもべ)なり」という考えを持って、セッションにおける完全な集中と全くの静寂を望んだ。考えどおりに行かないと癇癪を起こして控え室に姿を消してしまうのは1955年になっても相変わらずだった。

 世は既にLP時代だったが、カンテッリは録音の継ぎ接ぎに頼らず「通し演奏」にこだわった。ひとつのテイクのプレイバックを聴いてはオーケストラのバランスをチェックして、さらにリハーサルをしてまた通しで録音した。1955年6月26日と28日、ロイヤル・フェスティバル・ホールで演奏されたドビュッシーの 《夜想曲》 は、まだ脳裏に明らかな8月の録音でさえ20回ものテイクを要した。

 とはいえ年々カンテッリとフィルハーモニアの関係は緊密となり、楽員達は彼の客演を心待ちにするようになった。1956年5月、キングズウェイ・ホールでベートーヴェンの第5と第7のセッション。幸い第7は完了し5月31日、第5が開始された。ところが当時、隣接するコンノート・ルームの戦後改修工事の騒音が邪魔となってテイクがしばしば中断し、第1楽章を録音することなく最終の6月5日となった。カンテッリは来年録音すると述べてロンドンを去った。これが最後となった。

 グイド・カンテッリ36歳。ミラノ・スカラ座音楽監督に指名されて間も無い彼が乗ったローマ発パリ経由ニューヨーク行きの飛行機は、1956年11月24日、パリ郊外オルリー空港から離陸後、火災発生、空中に散った。2名を除く乗客35名が亡くなる事故だった。

(参照CD) a : Testament SBT 1012 è1992, b : Testament SBT 1017 è1993


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Last updated 2000/11/06