この一枚
 
   

懐かしの英国映画を見る楽しみ肉声と映像

 デニス・ブレインの肉声の録音ないしは、その姿を捕らえた映像で、現在までわが国において市販されたものは、次の三点しかない。

  1. デニス・ブレインの肖像−最後の放送録音より    テイチク LP ULS-3107-C è1987
  2. デニス・ブレインの芸術                  東芝EMI CD CE25-5896/906 è1989
  3. デニス・ブレイン/ベートーヴェン :ホルン・ソナタ  東芝EMI LD TOLW-3548 è1991

 1.および2.はBBCから1974年と1979年に発売されたLP(REB175,REGL352)を音源としており、3.は1952年イギリス、アンヴィル映画社製作(ケン・キャメロン監督)の映像である。

 「最後の放送録音」とは、1957年8月24日(土)、エディンバラ音楽祭におけるデニス・ブレイン管楽合奏団演奏会(フリーメーソンズ・ホールにて)の実況録音である。デニスはアンコール曲のマラン・マレの《バスク人》を演奏する前に聴衆に向かって語りかける。聴衆から軽いどよめきが起きる。とても短いので、原文のまま記載する。

a little French dance, which also happens to be the shortest piece I know.

 最初のCDによる『デニス・ブレインの芸術』には、BBCの人気ラジオ番組「無人島レコード」(1956年8月13日)にデニスが出演した時の放送録音が含まれている。ゲストへのインタビューの最後に、番組の題名どおり、無人島にレコードを一枚だけ持っていくとしたら、と尋ねられたデニスは「読みきれない程の自動車雑誌」と答える。

 デニスの解説付きのベートーヴェンのソナタは唯一の映像である。その淡々とした語り口や柔らかな微笑を湛えた表情から、人柄の良さがしみじみと伝わってくる。ぴしりとした立奏姿勢や楽器の構えにも全く隙が無い。


捧げられた曲肉声と映像懐かしの英国映画を見る楽しみ

ビデオ化された映画を、「見ながら聴く」楽しみ方がある。東北新社のビデオ・グラフ・クラッシク・ライブラリーには、戦後まもない1940年代制作の英国映画が多く含まれいる。

その映画音楽をウォルトンやバックスなど英国音楽界の大物が作曲し、フィルハーモニアやロイヤル・フィルハーモニーが演奏しているとなれば、さらに興味がそそられる。

封切 タイトル 監督/原作 作曲(音楽) オーケストラ/指揮 ビデオ
No.
1945 逢びき デビッド・リーン
ノエル・カワード
ラフマニノフ
「ピアノ協奏曲第二番」
ナショナル交響楽団
ミュア・マシーズン
アイリーン・ジョイス(pf)
VZ-901
1947 赤い靴 マイケル・パウエル
エメリック・プレスバーガー
ブライアン・イースデール ロイヤル・フィル
サー・トーマス・ビーチャム
VZ-902
1948 ハムレット ローレンス・オリビエ
ウィリアム・シェークスピア
ウィリアム・ウォルトン フィルハーモニア
ミュア・マシーズン
VZ-962
1948 オリバー・ツイスト デビッド・リーン
チャールズ・ディケンズ
サー・アーノルド・バックス フィルハーモニア
ミュア・マシーズン
VZ-915

駅の待合室で何度か繰り返される出会いで、ラフマニノフのピアノ協奏曲第二番の甘く、切ないホルン・ソロが使われている。(逢びき)

イースデールの「赤い靴」は、冒頭デニス・ブレイン率いるホルン四重奏による10秒程のファンファーレに始まる。バレエ映画であるだけに、《白鳥の湖》や表題の創作バレー《赤い靴》、《風変わりな店》、《コッペリア》、《レ・シルフィード》などが次々とスクリーンに登場する。

王子ハムレットは、深夜出没するという亡霊を待ち受けている。城では、王の徹夜の宴会が始まっている。ルネッサンス風の舞曲で、おどけたホルン・ソロがあるが、はっきりとは聞き取れない。(ハムレット)

ある夜、少年スリ団の首領、ウィリアム・サイクスは、自分を裏切った愛人ナンシーを殺してしまう。狂ったように吠える犬の鳴き声のあと、平和なホルンソロとともに夜が明けるが、音楽はサイクスの乱れる心を暗示するように不安にさざめく。(オリバー・ツイスト)


オーブリーと息子懐かしの英国映画を見る楽しみ捧げられた曲

 デニス・ブレインがEMIに残した協奏曲(モーツァルト、R.シュトラウス、ヒンデミット)と、Decca録音のブリテンのセレナードは、何れも永遠の金字塔と言えよう。加えて、デニスと同時代を生きた作曲家達が、デニスの演奏に触発されて書いた曲にも耳を傾けたい。

 《祝典のための音楽》で吹奏楽ファンにお馴染みのゴードン・ジェイコブ(1895-1984)のホルン協奏曲(初演:1951年5月8日、ウィグモア・ホール)。第一楽章は、そくそくとした弦楽器の刻みに乗って奏されるホルンの主題がとても印象的。第二楽章の寂寞感と、終楽章のキツツキのようなタンギングの対象も際立つ佳曲である。デニスも気に入っていたようで、何度も取り上げている。BBCの1951年7月3日放送があるが、個人所蔵である。最近のCDでは、これもデニスの為に書かれたマーティアス・シェイベル(1905-1960)のノットゥルノも入ったゾレン・ヘルマンソン盤(BIS CD-376)が清々しい音を聴かせる。オケは、ウメオ・シンフォニエッタ。

 1957年のBBC軽音楽祭の委嘱作、アーネスト・トムリンソン(b.1924)のホルンとオーケストラの為のラプソディーとロンド(初演:1957年6月22日、ロイヤル・フェスティバル・ホール)。作曲時に、「ロンド」はデニスの意向で8分の6拍子ではなく4分の2拍子とされ、ジャズ調のフレーズやダブルタンギングの連発にも拘らず、そのリハーサルでデニスが「もっと速く」と催促し、伴奏オーケストラの方が怯んだという曰く付きのもの。初演当夜の放送は、個人所蔵のため、現在のフィルハーモニアの主席のリチャード・ワトキンスが作曲者自身の指揮、スロヴァキア放送交響楽団と録音した盤(Marcopolo 8.223513)がある。

 元LPOのトランペット奏者で、いわばブラス仲間のマルコム・アーノルド(b.1921)のホルン協奏曲第二番作品58(初演:1957年7月17日、チェルトナム音楽祭)。1956年のホフナング音楽祭では、彼の《大々的》序曲でオルガンを弾いたデニスに、本職のホルンのための曲を捧げたもの(作曲者の自筆楽譜表紙はこちら)。惜しむらくは、そのデニス最後の協奏曲演奏をBBCが録音していなかったため、その演奏ぶりを知る縁も無い。当時のフィルハーモニアの同僚、アラン・シヴィルがこれまたデニスの旧友のノーマン・デル・マーの棒で録音している(EMI EMINENCE 5 66117 2)。オケは、ボーンマス・シンフォニエッタ。

 この他、ゴードン・ブライアン、モーリス・ブラワー、アンソニー・ルイス、女流作曲家のエリザベス・ラトイェンズなども、デニスのために協奏曲を書いているが、現在のところ商業録音がされていないため、未聴である。

 女流といえば、デニスの父オーブリーのために書かれたエセル・スマイス(1858-1944)のヴァイオリンとホルンと管弦楽のための協奏曲がカタログに載っている。ホルンは、前述のワトキンスとBBCフィルハーモニー(CHANDOS CHAN 9499)。大見栄を張った曲だが、なぜか最後まで聴き通してしまう。


リヒャルト・シュトラウス音楽祭捧げられた曲オーブリーと息子

 歌崎和彦編著『証言−日本洋楽レコード史(戦後篇・1)』(2000年8月、音楽之友社)で戦後のレコード産業復興期に日本ビクターに入社された飯野尹(すすむ)さんが当時を語っている。

 (日本ビクターが昭和28年に発売した)オーブリー・ブレインのブラームスの《ホルン三重奏曲》*は、ブッシュ、ゼルキンとの戦前の録音で、名盤として知られていたのですが、同じ頃に息子のデニス・ブレインのモーツァルトのホルン協奏曲集(2、4番)が日本コロムビアさんから出て、『レコード芸術』で推薦盤になるほど話題になりましたし、こちらは曲も渋いので相手にならなかったと思います…

 オーブリーのホルンは気高く、重厚なグランド・スタイルだったのに比べ、デニスは《熊ん蜂の飛行》をバリバリに吹くようなパワフルなテクニックを備えたヴィルトゥオーソだった。

 オーブリー・ブレイン(1893−1955)はビーチャムの新交響楽団、ロンドン交響楽団、BBC交響楽団など第一級オーケストラの主席ホルンを勤めた。当時はホルン協奏曲を吹く機会など殆ど無かったが、1927年にモーツァルトの協奏曲第2番を最初にレコードにしている。

 1933年、ウィグモア・ホールでのアドルフ・ブッシュ、ルドルフ・ゼルキンとのリサイタルでブラームスの《ホルン三重奏曲》を演奏評はこうである。

ブレイン氏のホルンパートは一音のミスもなかった。彼の楽器はこのアンサンブルに優美に加わった。

 デニスのプロデビューは父よりもさらに若かった。誰もがこの少年はとてつもない名手だと思ったし、協奏曲を吹くようになると、さらに新しくデニスのために曲が書かれるようになった。しかしデニスは独奏者としてやっていくよりも、通常オケマンとして演奏することが好きだった。

  オーブリーはハンサムで格好が良く、古風で礼儀正しく、息子達からとても愛され、彼らのヒーローだった。しかし実のところはあまり面白味が無く、どこか人を寄せ付けないし少し見栄っ張りだったようである。その点チビでまるぽちゃのデニスの天衣無縫さはどんな人も魅了した。皆彼を愛し、悪く言われることも無い。決して己惚(うぬぼ)れることが無く、他のホルン奏者も心底素晴らしいと思っていた。「彼、とても上手いじゃない?」デニスの口癖である。

 デニスは別に考えもなく、いとも簡単にホルンを吹く、とよく言われるが、それは正しくない。彼は王立音楽院で父オーブリーにホルンを学んだが、学生時代にモーツァルトの協奏曲を演奏したことが一度もない。おそらく彼の父であり教授でもあったオーブリーがデニスにやらせなかったのであろう。

 デニスが最初にモーツァルトの協奏曲を吹いたのはゴールダーズ・グリーンのドームでの新ロンドン管弦楽団の演奏会だった。客席には父オーブリーと出番のないガレス・モリスが座っていた。デニスは見事に演奏したが、オーブリーはモリスに全くの真顔で言った。「あれにとってあまり簡単でなければ良いんだが…」

 父はデニスがいとも簡単に1曲吹き通してしまって、あらゆる微妙なニュアンスを全部ミスするのではないかと考えていた。しかしながらデニスはその程度のホルン吹きではなかった。皆そうするようにロングトーンとスケール(音階)を毎日練習していた。彼の目指す所は途方もなく高く、演奏に差し支えることは決してやろうとしなかった。

 オーブリーにとってモーツァルトは容易ではなく、少し妬(ねた)みがあったのかもしれない。デニスが簡単そうにモーツァルトを吹けることは、裏を返せば器用だけれど深みが欠けたりはしないかと本当に心配したのだった。

*(参照CD)Testament SBT 1001 è1990


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Last updated 2005/11/06