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第80話「ミュージック・イン・エア・フォース・ブルー」
 英国空軍(RAF、アール・エー・エフ)交響楽団。第2次世界大戦中、英国空軍中佐ルドルフ・オドンネル中佐によって英国中の優秀な演奏家が集められ結成されました。デニス・ブレインもメンバーの一人でした。

 その元メンバーでフルートのガレス・モリスや、ヴァイオリンのデーヴィッド・マーティン、指揮者のノーマン・デル・マーらへのインタビューと、英国空軍アーカイヴで新たに発見されたRAF交響楽団のレコードや戦時中の放送録音をもとに構成されたラジオ番組「ミュージック・イン・エア・フォース・ブルー」が2005年4月22日(金)午前11時、BBC第四放送で放送されました。

 「(1945年夏の)ポツダム会議で演奏しました。兵隊たちは演奏を必ずしも熱心に聴いていませんでした。演奏を聞きにくるときはビシッと行進させられて来ましたけどね!」とはガレス・モリスの思い出話。

 大変魅力的なドキュメンタリーです。
2005年07月03日 20時02分49秒

第79話「ギャルドきちがい、木下直人さんとのこと (4)しつこくもギャルド」
 ブレインのCD制作が一段落した頃、1961年第9回全日本吹奏楽コンクールでのギャルドの録音テープの「捜索」を開始しました。明石高校OB吹奏楽団の当時の団長、呉幸五郎さんが保管されていた当時の資料を入手。確かにソニー製の1962年のコンクール実況ステレオ録音テープはあるものの、1961年の録音は見たことも聞いたこともないとの残念なお話。優勝した蒲郡市吹奏楽団のシニア・メンバーの方からも同様の返事でした。

第9回全日本吹奏楽コンクールでの明石高校OB吹奏楽団。昭和36年11月12日、東京・台東体育館で 万事休すかと思えてきたある日、当時のメンバーでスーザホンを吹いていた高雄弘文さん(故人)からギャルドのビデオが少しあるので良かったら見にこないかと連絡が入りました。すっ飛んで行きますと、確かに昭和36年11月12日、台東体育館での明石高校OB吹奏楽団の演奏(左写真)に続いて軍服姿のギャルドの楽員たちがぞろぞろと舞台に出てくるセピア色の映像…。

 「何ですかこれは高雄さん!」と叫ぶ私に、放送部の友人を東京まで同道して、当時まだ珍しかった8ミリ映写機で撮影してもらった。ちょっとだけギャルドも写した。それを今度のOB会で見せようと古い映写機を引っ張り出してきて、壁に映した8ミリ映像を現代のビデオ・カメラで撮影した、などなど。



 フィルムに写ったホルン(Cor)のメンバーは、カミーユ・ブーティュ、ロベール・ナバッス(→パリ音楽院管)、ジョルジュ・フォーコン、ジェラール・クートレ(→パリ音楽院管)、アンドレ・ガンティエ(→フランス国立放送管)の5名。全員フレンチ・タイプのピストン式ホルンを吹いていました。音は入っていないため当日演奏された「ダフニスとクロエ」か「牧神の午後への前奏曲」かあるいはもう1曲のどれであるかは定かではありません…。

ギャルド・レピュブリケーヌ交響吹奏楽団演奏会プログラム 日本の吹奏楽ファンにフレンチ・スタイルのメロウな管楽器の音色を最初に聞かせてくれた1961年のギャルド・レピュブリケーヌ吹奏楽団。

 軍楽隊ながら、最高の芸術家集団であったことは楽長のブランが来日前に語った言葉「われわれのオーケストラは、ベルリンのフィルハーモニー、ボストンのシンフォニー・オーケストラにも劣らない」からも推察できます。

 1961年ギャルドに関する木下さんの興味深いお話は、ホームページ「忘れざるルシアン・テヴェ」の掲示板過去ログ、「しつこくもギャルド、その一」(残念乍ら消失)からその十にかけて読むことが出来ます。
2005年05月04日 23時56分20秒

第78話「ギャルドきちがい、木下直人さんとのこと (3)自作CD」
プレーヤーにレコードを落とす木下さん 2001年9月15日(土)、折りからの行楽シーズンの車で首都高速が渋滞、私は予定よりはるかに遅れて飯田市内某バス停に降り立ちました。しっかり抱えるは大事なSPレコードの入った手提げ袋。案内所の女性と一言二言交わせば、懐かしい信州訛り。程なく着いた1台の車のウィンドウから差し出された右手とガッチリ握手しました。

 早速ご自宅のリスニング・ルームで持参したデニス・ブレインのレコードを再生。半世紀以上前のレコードから蘇る力強い音楽に鳥肌の立つ思い。おまけにお気に入りのフランスものの古い優秀録音の数々や手巻き式蓄音機によるマルセル・モイーズの「精霊の踊り」なども聞かせて頂きました。3時間余りの邂逅でしたが、話は尽きることなく、お互い最善を尽くすことを誓って慌しく木下家を後にすることに。数日後、早くもCDRになって我家に送られてきたのには二度驚きました。

 木下さんがトランスファーに使用された機器
カートリッジ:オルトフォンAG65D
アーム:同SMG212
SP用イコライザーアンプ:完璧に調整されたマランツ7
アナログプレーヤー:トーレンス124
CD-R録音機:マランツCD-R630PRO

蓄音機を廻す木下さん 2001年、三度(たび)来日したギャルドのメンバーが「こんなのフランスにもない!」と言いながら争って買い求めたという「ギャルド・レピュブリケーヌ吹奏楽団の芸術」。その生みの親である木下さんが以前、旧吹込の時代のギャルドのレコードを、巨大ホーン付き手巻き式蓄音機で再生し、8ミリビデオのマイクを使って収録して世界にまたとない自作CDを作ったという痛快なお話があります(1999年3月季刊SPレコードVol.4〜1、アナログ・ルネッサンス・クラブ発行)。

 ご持論の「レコードは、製作された当時の機器で再生するのが理想」を創意工夫で実現されたものと思います。ブレインの自作CDも、こんな木下さんのご苦労に全て負うことで実現しました。
2005年04月29日 10時22分30秒

第77話「ギャルドきちがい、木下直人さんとのこと (2)1961年ギャルド」
ギャルド・レピュブリケーヌ交響吹奏楽団大阪公演入場券(原寸大) 木下さんは中高の吹奏楽班でトランペットを担当。その時分にお家の最高級電蓄でよくかけられたのが当時最高の状態にあったギャルド・レピュブリケーヌ吹奏楽団が1961年に初来日、杉並公会堂で録音した行進曲集。

 以来そのフランスの響きに魅せられて幾星霜。現在では世界に誇りうる同吹奏楽団に関するSP・LPレコード、CDをはじめ、ソノシート、ろう管式レコード(シリンダー)、プログラムその他、ありとあらゆるコレクションのホルダーであり研究家でいらっしゃいます。

 そんな木下さんが、取り組まれているのが当時ギャルドがNHK第1放送と第2放送を同時に使って放送された番組「立体音楽堂」の為に収録したステレオテープのCD化(レコード芸術誌2001年9月号「読者投書箱」参照)。

 そして同年11月11日、東京台東体育館で行われた第9回全日本吹奏楽コンクールにギャルドが賛助出演し、《ダフニスとクロエ》ほかを演奏。それをソニー社がまだ実験的なものだったステレオ・テープレコーダーで実況録音していたという事実。

 さらにその全日本吹奏楽コンクールでギャルドが招待演奏のステージに登場する直前、一般の部の最後にエントリーしたのが関西代表、明石高校OB吹奏楽団、すなわち私の先輩方だったという偶然!

 最近当時のメンバーで、ユーフォニアムを吹いていた田中英夫さんに当時の思い出を聞くことができました。

  「(コンクールの)演奏を終えるともう舞台袖に青い軍服を着たギャルドのメンバーがいてね。楽器をしまうのもソコソコに、ともかく客席に急いだね。牧神の何とかという曲をやっていて、フルートがえも言われぬ音やった。こんなんじゃ(自分たちの演奏は)駄目やと思ったね…」
2005年04月25日 22時30分21秒

第76話「ギャルドきちがい、木下直人さんとのこと (1)出会い」
東芝EMI「ギャルド・レピュブリケーヌ吹奏楽団の芸術」パンフレット 2001年発売の東芝EMI「ギャルド・レピュブリケーヌ吹奏楽団の芸術」全20巻!ステレオ録音のトッカータとフーガやハンガリー狂詩曲、行進曲「立派な青年」ぐらいしか知らない私(昔のブラスバンド部員)、まずディスクの多さに驚きました。さらにこの大作が木下直人さんという人の提供によって出来たこと。木下さんて一体どこの誰なんだろう???

 たまたまその年は、デニス・ブレインの生誕80周年。私は、SPレコードの復刻プロジェクトを立ち上げていて、この日本でSPレコードから音を引出せる人を探していましたが、木下さんには行き当たってはいませんでした。デンマークから無事SPレコードは到着したものの、レコード会社への制作依頼が頓挫しかけていた頃、インターネット掲示板にその木下さんからの投稿が入りました。

 「ギャルドの芸術のSPの提供と復刻は私がおこないました。SPの復刻も当時よりも技術、設備ともに自信がありますからよろしければわたしがボランティアします。雑音うんぬんよりも当時の機器でないと音楽性のある復刻はできません。」

 私は思いきって、自主制作が前提という条件でお気持ちに変わりが無いか、お伺いの手紙を出すことにしました。数日後、突然お電話頂き「復刻はボランティアで私にやらせて下さい!」ひとしきりお話して、木下さんの持論は、SPの復刻には「ノイズ、音色そしてもっとも大切なのは音楽性が再現できているか。それにはカートリッジ、ターンテーブル、アーム、トランス、イコライザーアンプに最良に調整された当時のものが必要」であり、ギャルド復刻後にORTFONのSPU−AG65(カートリッジ)を入手され、それがまた途轍も無く素晴らしいとか。

 何よりもデニス・ブレインという20世紀の天才奏者が若き日に残した芸術を今自分たちの世代がきちんと残しておかないといけない、というお考えには全く頭が下がりました。かくして3ヶ月間、ひたすら私の部屋で黙していた6枚のSPレコードは、木下さんがお住まいの長野県飯田市に再び旅立つことになりました。
2005年04月24日 22時23分20秒

第75話「デヴォン州ティヴァートン」
 BBC LEGENDS の最新盤(BBCL 4164-2)で初出のギルバート・ヴィンター(1909-1969)の「狩人の月」。デニス・ブレインの親友で、ロンドン交響楽団のジョン・バーデンのために作曲されました。バーデンは現在、アイルランド在住。バーデンのお父さんは、デヴォン州ティヴァートンの教区教会で牧師をしていました。バーデンとデニスは、第2次大戦前、そのティバートンで休暇を過ごしたことがあるといいます。
2005年03月01日 20時47分33秒

第74話「デニス・ブレインとウィーンの第九」
 「1955年夏、私はフィルハーモニア管弦楽団に入団しました。ちょうどその頃オーケストラは、ヘルベルト・フォン・カラヤンとウィーンでベートーヴェンの第九交響曲を録音していました。首席奏者のデニス・ブレインは、7月29日、プロムスでシェイベルのノットゥルノを演奏するため、途中でイギリスに帰らなくてはなりませんでした。そのため1番ホルンをエディ・チャップマンが、5番を私が引き継ぎました。」

アンドリュー・マクガヴァン(英国ホルン協会発行「ホルン・マガジン」、1997年冬)


 スティーヴン・ペティットの伝記は、デニス・ブレインが第3楽章の有名な4番ホルンのソロを吹いたと記述しましたが、坂本さんの分析により、B♭のペダルの後から12/8拍子の前まで、というのが正確なところです。
2005年02月10日 20時53分00秒

第73話「1955年、ボストン響ジェームズ・スタリアーノと」
 1955年、フィルハーモニア米国演奏旅行の最後の演奏会の後、デニス・ブレインとアンドリュー・マクガヴァンは、ボストン交響楽団のジェームズ・スタリアーノらとチャイナ・タウンのレストランに行きました。スタリアーノは、アルフレッド・ブレインと彼のロス・アンジェルス・ホルン・クラブについて大いに語ったといいます。ブレインもスタリアーノを賞賛しました。

 その約1ヶ月後、今度はボストン響がロンドンに来ました。フィルハーモニアのホルン・セクションは、ボストン響のホルン・セクションをサウス・オードリー街のインターナショナル・ミュージック・クラブに招きました。演奏会が終わりパーティが始まるまでの間、ボストンのホルンの面々は、部屋でブランデーの大きな瓶を脇にトランプをしていました!
2005年01月29日 14時23分45秒

第72話「1991年IHSデニス・ブレイン生誕70年記念セミナー」(下)
 テキサスでのIHSシンポジウムでデニス・ブレインの死ぬ数週間前をともに過ごした7年来(1950-1957)の同僚、ニール・サンダースがその思い出を語りました。

 「私はデニスにフィルハーモニアを辞めようと考えていることを打ち明けました。するとデニスは自分も退団を考えていると答えました。デニスがソロ以外で指揮などに興味を持ち始めた最後の数年間、ウォルター・レッグがEMI以外のデニスの録音契約を強く制限したために、大変不満に感じていたのです。だからもしデニスがそのまま生きていたら、たぶん1958年までにフィルハーモニアを辞めていたと思います。そして自分の管楽五重奏団とフリーランスの指揮者とソリストとしての道を辿ったでしょう。私はアラン・シヴィルの「デニスは晩年気が滅入っていた」という発言には絶対反対です。」

 彼はデニスに大きな将来があると信じていました。
2005年01月18日 22時19分27秒

第71話「1991年IHSデニス・ブレイン生誕70年記念セミナー」(上)
 1991年5月、米国ノース・テキサス大学において国際ホルン協会(IHS)主催のデニス・ブレイン生誕70年記念セミナーが行われました。

 パリ管弦楽団のミシェル・ガルサン=マルーやギルド・ホール音楽学校でデニス・ブレインのレッスンを受けたエド・グリックが講演を行いました。

ほかに当時米国人ダグ・エリオットが所有していたブレインのアレキサンダー製B管ホルンや、英国空軍の1944/45年米国演奏旅行中にブレインがサンソンから購入し、後に弟子の一人ジョー・ヘンダーソンの宝物となった5ヴァルヴ・ホルンが披露されました。

 セミナーで公表された論文は、同年10月に発行されたIHSの協会誌「ホルン・コール」に掲載されました
2005年01月15日 14時12分03秒

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