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第330話「(続)ベンジャミン・ブリテン/テノール、ホルンと弦楽のためのセレナード Op.31」
 雑誌「音楽の友」1951(S26)年7月号に1951年3月31日〜4月15日の第4回ウィーンの国際音楽祭でベンジャミン・ブリトゥンのセレナーデと「春の交響曲」が演奏されたとの記事あり。ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の公演記録で確認すると1951.4.12、ウィーン・コンツェルトハウス大ホールで、指揮/クレメンス・クラウス、テノール/ピーター・ピアーズ、ホルン/ゴットフリート・フォン・フライベルク (1908-1962)による演奏と判明しました。これは凄い!
2025年9月28日 19時03分

第329話「ベンジャミン・ブリテン/テノール、ホルンと弦楽のためのセレナード Op.31」
 ブリテンのセレナードの初演時(1943年10月15日、ウィグモア・ホール、ロンドン)のプログラム。ブリテン・ピアーズ・アーツから送って頂きました。カーソルを合わせると裏面が見られます(PCのみ)。

 以前弊サイトの掲示板でExpo'70でアイファー・ジェームズ (1931-2004)がイギリス室内管弦楽団とベンジャミン・ブリテンの「テノール、ホルンと弦楽のためのセレナード」を演奏した(1970年9月8日、大阪フェスティバル・ホール)と教えて頂きました。Wikipediaではルシアン・テヴェ (1914-2007)が1945年にピーター・ピアーズとパリ音楽院管弦楽団、シャルル・ミュンシュ指揮でフランス初演したとあります。そこで本邦(日本)初演者は果たして誰なのか無性に知りたくなりました。

 まずブレインの弟子でいらっしゃった千葉馨さんを演奏家辞典や追悼CD「千葉馨、永遠に」のバイオなども確認しましたが見当たらない。NHK交響楽団の演奏記録に記載がありません。さらにNHK交響楽団に問い合わせましたが演奏実績が無いというお返事。

 ホルンのCD収集で有名なgoshikinumaさんにもお尋ねしましたが35種類を越えるコレクションでも、残念乍ら日本での演奏は1999年4月16日の日本フィルハーモニー交響楽団の平塚晴樹さんのみとのこと。

 かくなる上は市内にある県立図書館に所蔵されている昔の音楽雑誌を閲覧することにしました。
2025年9月24日 15時55分
第328話「Expo '70」

 連日賑わいを見せているExpo 2025。55年前のExpo '70はさながらオーケストラの万国博覧会。その中でフィルハーモニア管弦楽団(当時の名称はニュー・フィルハーモニア管弦楽団)の初来日に突然の不幸が襲い、またそれを素早く克服したことをご存じでしょうか。下記の文章はスティーヴン・ペティットがもう一冊の著書「フィルハーモニア管弦楽団 1945‐1985の業績」(Robert Hale, 1985)でその内側を描いたものです。

 1970年7月の最終週は、オーケストラの初来日に向けた最終準備とリハーサルが行われた。彼らは、イギリスの管弦楽を代表するため、大阪万博で演奏し、また東京でも演奏会を行うよう招待されていた。ソリストのジョン・オグドンとジャネット・ベイカーが同行することになっており、このツアーの首席指揮者はジョン・バルビローリで、エドワード・ダウンズが補佐することになっていた。当時、バルビローリの健康状態は深刻であったが、7月27日月曜日にジャネット・ベイカーとマーラーの交響曲第1番と2つの歌曲集のリハーサルを行った。続いて28日はブリテンのシンフォニア・ダ・レクイエムとベートーヴェンの英雄交響曲を演奏し、翌日はシベリウスの交響曲第2番のみとなった。ツアー前の短い記者会見と写真撮影の後、彼は帰宅した。翌朝未明、彼は息を引き取った。

 西洋音楽界が感じた喪失感は日本人にも共通しており、彼らは日本で初めてバルビローリを生で見ることを心待ちにしていた。ジョン・プリチャードは今や、「栄光のジョン」の代わりを務めるという悪夢だけでなく、スケジュールの悪夢にも直面していた。彼は1969年にロンドン・フィルハーモニー管弦楽団と来日していたが、その時はもっとゆっくりとしたペースだった。彼は今度は予定通りにプログラムをこなさねばならなかった。8月3日、ロンドン交響楽団のプロム。8月4日、日本へ飛び、午後のリハーサルに間に合うように5日に到着。8月6、7、8日、大阪でコンサート。8月9日、ロンドンへ戻る。8月11日、グラインドボーン・オペラ・プロム(ロンドン)。8月12日、日本へ飛び、リハーサルとコンサートに間に合うように13日に到着、東京。8月14日、コンサート、東京。 8月15日、フェスティバルのために香港経由でアテネへ飛ぶ...マーラーの交響曲第1番の演奏を引き受けてくれたエドワード・ダウンズの寛大さがなければ、このすべては実現しなかっただろう...彼にとっての初演であり、個人的なリハーサルはほとんどなかった。彼には、70年万国博覧会のためにアレクサンダー・ゲールに委嘱された一楽章交響曲の演奏を大阪と東京で指揮するという任務があった。

 ジョン・プリチャードは過酷なスケジュールの中でも精力的に演奏を続けていたようで、彼とジョン・オグドンが、愛らしい着物姿の日本の少女たちから花束を受け取り、互いに頭を下げ合う光景は、心に深く刻まれるものだった。ジョン・バルビローリは忘れ去られていなかった。大阪のホールには白い菊の花が飾られた拡大写真が飾られ、後に東京でも完全な展覧会が開催された。演奏は、ベルリンやクリーブランドに匹敵するバルビローリの記憶に捧げられたものだった。プレス紙は、フィルハーモニア管弦楽団を、比類なき美しい音色と、世界のどのオーケストラにも引けを取らない技巧を持つオーケストラと評した。



掲示板の過去記事
Expo'70
アイフォル・ジェームズ
2025年8月24日 18時46分

第327話「『人生のミサ』第2部への前奏曲」
 第2部への前奏曲は「山上にて」と題される部分への序奏に当たっている。ツァラトゥストラがただひとり高い山の上に立って広漠とした静寂のなかで思索にふけっていると、角笛が谷間にこだましてひびいてくる。当時RPOの首席ホルン奏者をつとめていた伝説的な名手デニス・ブレインと2人の同僚のホルンの音が美しく刻まれている。(東芝EMI「デニス・ブレインの芸術」三浦淳史)

 録音は1948年5月8日、2人の同僚とはイアン・ビアズとレイ・ホワイトであり、LPレコード時代から最新のDENNIS BRAIN HOMMAGEまで変わることはない。さらに元を正せばEMIが通信販売レコードレーベルとして英国で発足したワールドレコードクラブから1976年に発売した The Music of Delius - Volume1 World Records SHB 32が初出。RPOには1952年から1953年にかけての全曲録音もある(左掲)。

 ところが1992年に発売されたBeecham Edition CDM 764054 2のトラック13がブレイン関連のディスコグラフィーに若干の混乱を招いた。曲は「山上にて On the Mountain (Paa vidderne)」で人生のミサ第2部と同じサブタイトルを持っているものだから1995年のジョン・ハントのディスコグラフィー「Musical Knights」が『人生のミサ』第2部への前奏曲、1946年11月録音と掲載。これは1890年作曲の交響詩「頂きにて」の誤りで2017年にWarnerから発売されたディーリアスの管弦楽・合唱曲集では Paa Vidderne(On the Heights)に修正されている。曲は1946年11月8日、ロイヤル・アルバート・ホールでのディーリアス音楽祭の1曲目にリチャード・オースティンの指揮で演奏、11月26日にビーチャムが録音。

 いずれにせよBeecham Edition CDM 764054 2の Paa Vidderne は3番目の人生のミサ第2部への前奏曲ではないことは間違いなく、初出は1979年発売の The Music of Delius - Volume2 The Post War Years 1946-1952 World Records SHB 54。
 スコアより角笛(ホルン)は2番→3番→1番の順で登場。つまりビアズ→ホワイト(全曲盤はウッドバーン?)→ブレインの順かな…
2025年7月20日 18時52分
第326話「物欲の終わりに」
(左)オットー・クレンペラー ワーナークラシックス・リマスタード・エディション CD4(P2023)オリジナル・ジャケットはColumbia 33CX1241(P1955) ヒンデミット/組曲「高貴なる幻想」とブラームス/ハイドンの主題による変奏曲

(右)Angel S35491(P1959)シンフォニア・セレーナとホルン協奏曲

 1954年10月5日と6日、ジュピター交響曲を録音。翌7日の午前中はデニス・ブレインとヒンデミットのホルン協奏曲の収録する予定。レッグが4年前にこの作品を初演をしたブレインにレコーディングを依頼したものだった。

 クレンペラーは伴奏に同意したもののスコアをよく判っていなかった。昼休みにブレインはクレンペラーの遅いテンポと絞まりのないリズムについてレッグに不満を申し出た。クレンペラーがこのテンポを変えることを断ったため、常々レッグが「最も紳士的な男」と評するあのブレインが録音を完了させる筈の午後のセッションに来ることを拒んでしまった。

 騒ぎの後、ロッテ(クレンペラーの娘)が父の今後のフィルハーモニアとの関係に不安を感じ、蒼白な顔でレッグのオフィスに突然やってきた。同じくトラブルを避けたいと望んだレッグはホルン協奏曲を止めてヒンデミットの組曲「高貴なる幻想」にすることを提案した。全ての面目が保たれ、ヒンデミットの組曲とともにモーツァルトの交響曲第29番、ブラームスのハイドンの主題による変奏曲が何事も無かったように録音完了した…」

ピーター・ヘイワース著「オットー・クレンペラー〜その人生と時代 第2巻、1933−1973」
(ケンブリッジ大学出版、P1996)より

 スティーヴン・ペティットのブレイン伝でブレインが大人の対応をして残る録音に参加したように書かれていますが、アメリカのロバート・マーシャル教授はディスコグラフィー「デニス・ブレインのレコード」(P1996)でいずれにも参加していないとしています。

 以上、曰く因縁つきの未完成録音が、この世に出たものですからとても興味あります。時間はクレンペラーが3'13"、ヒンデミットが3'16"と大差ありません。

過去記事「ヒンデミットあれこれ」

2025年7月5日 11時23分

第325話(削除)
2025年3月1日 20時14分

第324話「サージェントのベートーヴェン」
 サージェントとナショナル交響楽団(NSO)のベートーヴェンについてロバート・マーシャルのディスコグラフィー「デニス・ブレインのレコード」1996年初版(マーガン・ミュージック社)と2011年第4版(インターネット版)で相違があります。

 1945年11月27日録音の交響曲第4番(Decca K1349-50)は、初版に記載されていませんが、第4版には記載されている。逆に1945年1月2日録音の交響曲第5番(K1126-29)は初版に記載、第4版には無い。

 ディスコグラフィー上の発見とデニス・ブレインの足取り(※)を重ね合わせた結果だと思います。


 ※ 英国空軍オーケストラとバンドの米国演奏旅行中(1944年12月18日〜1945年3月1日)のNSOの主な録音

1945/1/2 ベートーヴェン/交響曲第5番「運命」マルコム・サージェント指揮 
1945/1/3,4 チャイコフスキー/交響曲第4番 マルコム・サージェント指揮 
1945/1/19 ロッシーニ/「セヴィリアの理髪師」序曲 カール・ランクル指揮
1945/1/19 ウェーバー/「オイリアンテ」 カール・ランクル指揮序曲
1945/1/26 ベートーヴェン/交響曲第7番 アナトール・フィストラーリ指揮
1945/2/9 ロッシーニ/「ウィリアム・テル」序曲 ヴィクター・オロフ指揮
1945/2/15 ブラームス/交響曲第4番 カール・ランクル指揮 
1945/2/23 モーツァルト/交響曲第39番 ワルター・ゲラー指揮
1945/2/23 チャイコフスキー/幻想序曲「ロミオとジュリエット」アルバート・コーツ指揮 


 2025年2月23日 16時31分

第323話「クラシック音楽原体験/バレエ「胡桃割り人形」葦笛の踊り」
 小学校のときの学芸会でクラスの女の子二人が、講堂の小さなアークの舞台で演じたチャイコフスキーのバレエ「胡桃割り人形」が私のクラシック音楽原体験。

 暗くした舞台で青いスポットライトを浴びた白い衣装のバレリーナ。とても幻想的で今でも目に浮かびます。
2025年2月22日 20時25分

第322話「十八番(おはこ)/王宮の花火の音楽」
 1946年2月5日と6日、マルコム・サージェントとロンドン・ナショナル交響楽団によるキングスウェイ・ホールでの録音。同じセッションでベルリオーズの「ベアトリーチェとベネディクト」序曲、キャサリン・フェリアーの独唱によるバッハのマタイ受難曲から「主よ、憐れみ給え」も。

 ヘンデルは、イギリスのオーケストラにとって特別な曲ですが「王宮の花火」の録音はこれしかない。
2025年2月22日 18時41分

第321話「英国空軍の飛行機乗りだったロバート・アーヴィング(1913-1991)」
 ジョン・ハントのディスコグラフィー「フィルハーモニアを作った人々 Makers of the PHILHARMONIA」の11人の指揮者のうちのひとり、ロバート・アーヴィング(1913-1991)。指揮者になる前は英国空軍の飛行機乗り(Squadron Leader 少佐、Leading Aircraftman 技能兵 のデニス・ブレインより偉い)だった異色の人。前の話のアーネスト・アーヴィング(1878-1953)と縁戚関係は無い。フィルハーモニア管弦楽団とEMIに遺した録音19曲でチャイコフスキーの幻想序曲ハムレットとドホナーニの組曲以外は全部お得意のバレエ音楽ときました。左はドリーブの「シルヴィア」から狩の女神。ホルンがセクションでカッコいい!  
2025年2月8日 13時31分

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