20.ブレインのR.シュトラウス&ヒンデミットの協奏曲 | |
| name: | mojo - 2002年03月04日 14時39分37秒 |
久しぶりの書き込みです。 すでにお気づきかもしれませんが、最近、都内のCDショップに行ったところ、上記の曲がEMIのGreat Recordings of the Centuryのシリーズにて発売されていました。サヴァリッシュとヒンデミットが指揮しているおなじみのものです。
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19.さまよえるロシアン・スクール、ニコライ・マルコの果て | |
| name: | 夢中人 - 2002年03月03日 21時52分23秒 |
ムソルグスキーが「ベートーヴェンの「英雄」と並ぶべき作品」とも、往年の名指揮者ワインガルトナーが、チャイコフスキーの「悲愴」と並べて�爛蹈轡△瞭鸞膰魘繕吻瓩噺討咯淹燭靴燭里�ボロディンの交響曲第2番。現在では「二大」交響曲の一方の座はラフマニノフの同じ番号に奪われた感もありますが、デニス・ブレインのいたフィルハーモニア管弦楽団は3度(1948年、1954年、1955年)録音を行いました。1954年録音は、音質が乾いているうえ妙にハイ上がりで聴きづらいのですが、1955年録音はモノラルでも最良で、第3楽章のホルン・ソロも万全に伝えています(IMG Artists 7243 5 75121 2 1、P2002)。 この3度の録音のうち2度棒を振ったのがニコライ・マルコ(1883-1961)。物理学者と獣医で音楽好きの父とピアニストの母の子にウクライナのブライロフに生まれ、セマキにあるチャイコフスキーのパトロン、フォン・メック夫人ゆかりの家で幼少を過ごし、最初に手にした楽器はホルンだったとか。当時のマルコの手記にこうあります。 「僕は一人前の大人のようにチャイコフスキーがフォン・メック夫人に宛てた手紙をたくさん読みました。その中で彼はブライロフの主人と家族のいないメック夫人の家「シャトー」にいた時のことについて書いていました。彼が好きな花、スズランがないかと尋ね、セマキの農場にだけ咲いていると返事を貰っていることを面白く思いました。僕はすぐにその繊細で香しい花が咲いている場所が判りましたし、今でもちゃんとそこに行けます」 ペテルスブルグ音楽院でグラズノフ、リムスキー=コルサコフ、リャードフ、チェレプニンらに学び、在学中からシャリアピンやパヴロヴァ、ニジンスキーのいたマリンスキー劇場でオペラやバレエを指揮、1926年、レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者、レニングラード音楽院教授に就任、ショスタコービチの第1交響曲を初演、教え子にはあのエフゲニー・ムラヴィンスキーがいたといいますからまさに将来を嘱望された大物でした。ところがロシアの共産主義革命がマルコを海外へと押しやります。権威主義や官僚政治へ強い反感が胸にありました。 同じ頃、デンマークでは宮廷歌手でデンマーク放送ディレクターのエミール・ホルムがデンマーク国立放送交響楽団(DRSO)を大きくしようとして、ウィーンに客演したマルコに白羽の矢を立てました。 1929年、マルコは南米への出国許可を申請した際、ソヴィエトには戻らない決意を固め、翌1930年にはコペンハーゲンに来てDRSOと演奏会契約をします。その演奏会を終えた1月30日のマルコの日記が残っています。 「満員。無愛想な反応。第1楽章(ミャスコフスキー第5交響曲)の後で小さな拍手。第2楽章のあとは無し。心配になる。全曲は非常な明るさ、様式感、喜び、第1ヴァイオリンの素晴らしい旋律とともに演奏され、オーケストラや聴衆と私の関係が成功するであろうことは明らかだ。指揮台に初めて立って、オーケストラに起立を頼む。4回カーテン・コールを受ける。(中略)…成功、感謝。」 これでマルコはDRSOの首席指揮者に就任、正楽員も28名から58名に増員されますが、これはさらに国際的に有名な指揮者、フリッツ・ブッシュ招聘に繋がりました。そうなるとどうしてもマルコは近代もの、特にフランス、ロシアもののスペシャリストということになり、1933年から指揮を取ったブッシュは独襖のレパートリーを担当することになります。 さらに支援者ホルムの定年退職と第2次世界大戦の勃発は、マルコをまたしてもアメリカ移住へと向かわせます。1940年、シカゴ、デ・ポール大学教授に任命され、戦時中はCBSやNBC、ボストン、シカゴ交響楽団などに客演。戦後はロンドンやデンマークで再び活躍。レッグのフィルハーモニア管弦楽団(PO)とも主にロシアものを精力的に録音を開始。POの楽員も「エントネーション!」と叫ぶマルコの旧式なスタイルを愛したといいます。演奏会でもロンドン・フィルハーモニー(LPO)を振った1949年のカラヤン/POとの「第9対決」で、ロンドンっ子はマルコに軍杯を上げました。 ところが1951年、そのLPOとプロコフィエフの第5交響曲を今度はDECCAに録音する話をEMIは許可せず、これにマルコが猛抗議したことで録音機会が減少。1954年、リーズに設立されたヨークシャー交響楽団の首席指揮者をモーリス・マイルズから引き継いで薫陶、翌年デニス・ブレインとシュトラウスの2番で共演したりもしますが、1956年に破綻。EMIとの録音も無くなって1958年、オーストラリアのシドニー交響楽団のポストを受けて渡豪。1959年(86歳!)には東京交響楽団に招かれ来日、レコード芸術誌昭和35年2月号、名演奏家インタビューで宇野功芳さんと際どい会話を交わしました。 宇野 若手の指揮者の中では、やはりカラヤンが日本でも人気がありますが、最近レコードでも知られるようになったシルヴェストリも話題になっています。なかなか個性的な演奏をしますね。 マルコ 貴方は大変間違っている。カラヤンは良い指揮者だが、シルヴェストリは悪い指揮者だ。 宇野 それは何故でしょうか。 マルコ はっきりは言えない。ここだけの話だが彼は偽善者で詐欺師でうそつきだ。BBCの放送局に非常な後援者がいて、その人が彼を世に出したのだ。 宇野 しかしそれは個人的な理由でしょう。純粋に音楽的な面だけについては如何ですか。 マルコ (非常に怒って)いや、私の言っているのは音楽的な問題なのだ。彼には音楽に対する信念がない。これ以上はもう言えない。もう彼のことは聞かないでくれ…。 マルコは国際的キャリアを幾ら重ねても、人生において感情的、精神的にロシア人としてあり続けました。レコ芸昭和32年9月号、新譜月評でマルコ/POのプロコフィエフ第7番「青春」、第1番「古典」を木村重雄さんが評して「…存外マルコはプロコフィエフを通して、自分の《青春》を顧みたのかもしれない。19世紀初頭のロシア。そこはまだチェーホフにちょっぴり顔をのぞかせるような、田園風のロマンティシズムが香っていたことだろう…。」一方でマルコが自らのキャリアを振り返って残した言葉があります。「私は決してコルサコフ−グラズノフ流派に入れませんでした。それは多分私の中にヨーロッパ人のようなもの、西欧文化や世界主義(コスモポリタニズム)があるからでしょう。」1961年6月22日、マルコ、果てのシドニーで亡くなりましたが、現在もコペンハーゲンで3年ごとにニコライ・マルコの名前を冠した指揮者コンクールが開かれます。
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18.バレエを楽しむ | |
| name: | 夢中人 - 2002年02月28日 23時08分59秒 |
日本の7月は、さしずめ連日の熱帯夜でグッタリですが、イギリスへ旅行するには最適のシーズンです。晴れた日が多いけれども暑くなく、夜も9時位まで明るいので、観光にショッピングにとにかく目一杯旅を満喫出来ます。 一般のオーケストラ・コンサートはもう終わり。そのかわりバレエとプロムスがあります。バレエという柄でもないし、ロンドンのチケットは東京とあまり変わらない(高い)のですが、台詞(せりふ)がない気楽さもあっていつも楽しむことにしています。コヴェント・ガーデンにはロイヤル・バレエ、ロンドン・コリシアムには外来の有名バレエ団が毎年やってきます。 さてバレエといえばキーロフやボリショイのロシア・バレエを連想して、実際250年を越える歴史を誇っていますが、イギリスでは1931年にド・ヴァロア女史が結成したヴィク・ウェルズ・バレエ団がのちにサドラーズ・ウェルズ・バレエ団、1956年にロイヤル・バレエ団となった訳ですからそう古くありません。 ←コンスタント・ランバート(ICRC1995年秋号より)そのイギリスのバレエ界の発展に尽くしたのがコンスタント・ランバート(1905.8.23-1951.8.21)。王立音楽大学(RCM)でR.ヴォーン・ウィリアムズに学び、学生時代からその才能をロシア・バレエ団の興行主セルゲイ・ディアギレフに認められ、1928年から1931年までイギリスのカマルゴ協会。1931年から1947年までサドラーズ・ウェルズの音楽監督として作曲・編曲、指揮に活躍しました。 戦後誕生したばかりのフィルハーモニア管弦楽団とも盛んにレコードを録音しましたが、まだ78回転(SP)の頃でテープ録音が始まる前に若くして亡くなってしまいました。CDもそんなに多くありませんが、最後の録音(1950年)を集めたSommのSOMMCD 023、素晴らしいです。復活を待ち焦がれてきたワルトトイフェルのワルツ「スケートをする人々」、スッペ喜歌劇「ウィーンの朝昼晩」序曲、ウォルトンのバレエ音楽「ファサード」など。中でも「スケート…」のデニス・ブレインのソロ大変素晴らしいです。 ランバートが亡くなる直前、ある友人が訪ねて来ました。ランバートはワルトトイフェルのワルツを録音したレコードのテスト盤を聴いていました。やがて音楽を指揮しながら幸せな顔つきになり、少なくともその間満足げだったそうです。 | |
17.ドン・ファンの最後 | |
| name: | 夢中人 - 2002年02月23日 23時05分46秒 |
D.ウルドリッジが、その著書『名指揮者たち』で「1948年にロイヤル・アルバート・ホールでアルチェオ・ガリエラがフィルハーモニアを振ったリヒャルト・シュトラウスの�爛疋鵝Ε侫.鶚瓩任�8本のホルンがいた」と回想しています。この曲の聴かせ所は、やはり中間部でHi Dまで上昇する勇壮なホルンのユニゾンでしょうが、惜しむらくは曲の最後がなぜか「尻つぼみ」なこと。シュトラウスはハンガリー生まれの詩人ニコラウス・レーナウ(1802-50)の抒情詩を題材としましたが、モリエール(1622-73)の喜劇「ドン・ジュアンもしくは石像の宴」(岩波文庫「ドン・ジュアン」)を読んでもその訳を知ることができます。 モーツァルトの歌劇「ドン・ジョバンニ」で、ドン・ジョバンニはドンナ・アンナの誘惑に失敗してその父の騎士長を刺殺しますが、モリエールの「ドン・ジュアン」では殺めたのではなく、騎士道にもとづいて堂々とした果し合いの結果、立派に相手を倒したものとして疑わない、一方で弱きを助け強きを挫く義侠心に富んだ武士として描かれます。 幕切れでサブタイトルにもある「石像の宴」に招かれたドン・ジュアンは雷に打たれて炎の中で悶絶死しますが、シュトラウスの交響詩はスペイン伝説の放蕩貴族、悲劇の最期を静かに閉じた訳です。 | |
16.ステレオ録音について | |
| name: | 夢中人 - 2002年02月17日 17時25分35秒 |
レコードがステレオ録音となるまでの歴史をEMI100年史などを参考にまとめてみました。 1931.12 今日のステレオ録音の基礎となる録音再生方式のパテントがEMIのアラン・ブルムラインにより公開される。 1934.1 サー・トーマス・ビーチャム/LPOによるモーツァルト/ジュピター交響曲の録音セッションでモノラル録音に平行して初のステレオ録音の実験が行われる。 1947 DG(ドイツ・グラモフォン)テープ録音開始。 1949 EMI磁気テープ録音導入。ワックス(蝋)とテープ両方で78回転録音開始。3本のテープを使って継ぎあわせる新しい技術「クロスフェイディング」を考案。 1952.10 EMI、初のLPレコード(グイド・カンテッリ/ミラノ・スカラ座管のチャイコフスキーの5番)発売。 1955.2 EMI、初のステレオ録音(ニコライ・マルコ/フィルハーモニア管弦楽団のプロコフィエフの7番、3つのオレンジの恋、古典交響曲)。以降モノラルとステレオの両方で録音(90%)されたが、ステレオ録音は2年程従属的なものとして扱われた。 1955.10 マルコの録音、ステレオソニックテープにて発売。 1956 DG、最初のステレオ録音(ヘルムート・バルヒャによるバッハのオルガン曲)。 1958.10 EMI、DECCAと同時にステレオレコード第1弾(ビーチャム/RPOの「シェヘラザード」など)を発売。 1962.3 EMIのカタログからSPが全て消える。 1979.12 EMI、最初のデジタル録音LP発売(アンドレ・プレヴィン/LSOのドビュッシー「映像」「牧神」)。 | |
15.CDのマーク | |
| name: | 夢中人 - 2002年02月17日 14時14分25秒 |
| url: | CDのマークについて |
2、3まとめてみました(↑)。 | |
14.(欠番) |
13.カラヤンのミサ曲ロ短調 | |
| name: | 夢中人 - 2002年02月16日 13時10分09秒 |
ミサ曲ロ短調(Messe h-moll)。全曲は5声部の合唱、ソプラノ、アルト、テノール、バスのソロに加えて各種管楽器群に、弦楽合奏、通奏低音という大編成オーケストラによる演奏時間2時間を越える大曲。その第10曲、アリア「そはひとり汝のみ聖Quoniam tu solus sanctus」でたった1回だけ登場するホルン。 我が国の演奏史では、昭和44(1969)年5月9日、東京文化会館で初来日したミュンヘン・バッハ合唱団・管弦楽団演奏会におけるヘルマン・バウマン(b1934.8.1)の演奏が伝説的で、Archivからライヴ盤も出ました。 ところで、1999年はコンピューターの西暦2000年(Y2K)問題で明け暮れましたが、J.S.バッハ(1685-1750)の没後250年記念のディスクでヘルベルト・フォン・カラヤンのh-mollミサ(EMI References 5 67207 2)が出ました。Artリマスターで、音質がとても改善されたのですが、表記にウィーン楽友協会管弦楽団・合唱団とフィルハーモニア管弦楽団とありとても妙に思いました。 まずウィーン楽友協会管弦楽団というのは実はウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のことで、このディスクが録音された1952年当時、カラヤンは正式にはウィーン・フィルと活動が出来ない時期にあったから、という理由。ですがソロ・パート(ヴァイオリンのマヌウグ・パリキアン、ホルンのデニス・ブレイン、フルートのガレス・モリス、オーボエのシドニー・サットクリフ、ピーター・ニューベリー)はフィリハーモニア管弦楽団の首席奏者たちが、翌1953年にかけてロンドンのアビー・ロードスタジオで録音した、とされていたのでLP、CD旧盤ではそれら独奏者名がクレジットされていたのが、Art盤では消されて、単に「フィルハーモニア管弦楽団」となりました。これはどうしてでしょう? Quoniamは、楽譜上、独唱バス、D管コルノ・ダ・カッチャ、ファゴット2本、通奏低音が登場しますが、ホルンのソロ・パートは完全なソロという訳ではありません。いかなカラヤンでもウィーンで取ったホルン抜きの録音テープにアビー・ロードでデニス・ブレインのソロを重ねる、オーケストラはウィーン・フィルでホルンはデニス・ブレインという組み合せはとても考え難く、ロンドンでの録音はオーケストラの部分もフィルハーモニアが演奏していたというのが自然です。事実そうであったので、再発売を機会にオーケストラを二つ書いて、その代わり独奏者の名前を落としたのかな、と推測しました。 私はクリスチャンではないので、聖書のことはよく判りませんが、ともかく宗教音楽の傑作を純粋に聴いて崇高な雰囲気に浸れる名盤です。 | |
12.デニス・ブレインとポピュラー音楽 | |
| name: | 夢中人 - 2002年02月11日 21時17分33秒 |
アンドレ・プレヴィン編『素顔のオーケストラ』(別宮貞雄訳、日貿出版社、1980.11.15)にデニス・ブレインとジャズ・バンドに関わる証言があります。 私もスウィングや何か、ジャズを少しやったものさ。1947年頃には、一夏ブラック・プールでテッド・ヒースの楽団にいた。デニス・ブレインが客演で来ていて終わったばかり。スタン・ロデリックがいた。ケニー・ベーカーも終わったところで、ジャック・パーネルがドラマーで歌も歌っていた…ビル・ラング(LSOトランペット奏者) ペティットの伝記にもイギリス空軍時代にジェラルドのダンス・バンドにノーマン・デル=マーと参加した件(くだり)がありますが、このジェラルド。子供の頃、ピアノとオルガンの演奏に非凡な才能を示す天才でした。デニス・ブレインと同じ王立音楽院で勉強した後、無声映画時代のシネマ・ピアニストとして音楽ビジネスの世界に入りました。ロンドンのホテルで常設の軽音楽バンドのリーダーをやって、ラテン音楽に興味を持ち、南アメリカに行ったりもして、1930年、サヴォイ・ホテルに「グーチョ・タンゴ・オーケストラ」を率いて出演し、そこから10年間で2千回以上の放送を行うことになります。1933年には御前演奏の栄誉を得て、ジェラルドは自分のバンドをスタンダードなダンス音楽ばかりでなく、よりスィートなスタイルで演奏しうる、より型どおりのダンス・バンドに再編成する決心をします。30年代後半のジェラルドは、ロンドンのあちこちの劇場で「サンデー・ナイト・スィング・クラブ」を催し、40年代はじめには、一夜の公演で3千人の聴衆を集めるようになりました。 戦争が始まると、ジェラルドはENSA(Entertainment National Service Association)のダンス・バンド監督に指名され、その後すぐBBCのダンス音楽部長に任命されます。そこで放送やレコーディングのほか、オーケストラをヨーロッパはもちろん中近東や北アフリカなど困難な海外ツアーに連れていくなど、忙しく活動します。バンドは恐らくこの時期、文字通りのピークにありました。そのラインアップには、アルフィー・ノークス、テッド・ヒース、ナット・テンプルなどが参加して、素晴らしいスィング・セッションを行いました。 戦後もロニー・スコットなど若いジャズマンをメンバーに加えて、ニューヨークの舞台に出たり、イギリスでテレビ出演したりしましたが、そのテレビの出現はポピュラー音楽エンタテイメントの世界を違った方向に大きく変えることになり、50年代半ばにはジェラルドをもバンド解散の憂き目に追いやります。 デニス・ブレインは、1957年2月1日、ボブ・シャープレス楽団とWill you remember、Sympathyといったナンバーを録音、Contrasts in Hi-Fiというタイトルのレコードを残しました。その「業績」は、アラン・シヴィルのビートルズとのFor no oneでの共演、バリー・タックウェルのジェローム・カーン集などに引き継がれていきます。 | |
11.繋(つな)がった点と点 | |
| name: | 夢中人 - 2002年02月02日 22時23分06秒 |
大トトロさんへのご返事のついでに、タックウェルのことを書いてから気がつきました! ペティットのブレイン伝にあるロイヤル・フィルハーモニー(RPO)一時退団の経緯、つまり1948年12月、デニス・ブレインは同僚でデニス不在時にトップを吹く通常3番のロイ・ホワイトの不満をきっかけにRPOを退団。その後1年間、ロイ・ホワイトが首席を務めるが、ビーチャムは彼に不満。そこできっかり1年後、今度はロイ・ホワイトが母国オーストラリアに帰国するのを契機にデニスをRPOに復帰させた、というものですが、これがバリー・タックウェル少年が二つのオーケストラの席を空けてオーストラリアから渡英した時期とぴったり符合していることに気がついた訳です。 これは、デニスの伯父アルフレッド・ブレインがロンドンの主要オーケストラの席を放り出してアメリカに渡って、今度は父オーブリーがめでたくその席に就けた、という話にとてもよく似ていますが、考えてみればこの世の中は、古今東西を問わず一定のパイをやったり、とったりして回っているのが常ということなのでしょうか。 | |