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180.テヴェ先生のプーランク

name: 大山幸彦 - 2002年10月12日 22時46分14秒

は残念ながら私も先生から直接録音してもらったテープのみです。
当時はそうした優秀な演奏がラジオで放送されたのみ、というのが
良くあったようです。

ヴィエルモの演奏はご指摘のものです。当時61歳だったはずですが、
充実した音は素晴らしいですね。


179.ノイネッカーのお勧め

name: だいき - 2002年10月12日 21時56分23秒

176番でノイネッカーのお勧めはということでしたが、確かにノイネッカーは
どちからというと模範的な演奏ばかりします。
それでも女性としては凄い演奏家だと思います。
ノイネッカーがミュンヘンで2位受賞したときのことを考えると、
すごいと思います。
そのときのミュンヘン入賞者
1位:ヴラトコヴィチ
2位:ノイネッカー
3位:ミクロシュナージ
さて、本題はそれましたが、推薦盤といえば、なんといっても
グリエールのコンチェルトだと思います。
バンベルク響と共演しているやつです。
機会があればぜひ聴いてください。


178.Expo'70(続)&プーランク

name: Favart - 2002年10月12日 19時46分29秒

レッパード指揮イギリス室内管弦楽団、モーツァルト/交響曲No.29の演奏の一部がこちらで聴けます。[大阪フェスティバル・ホール、9月7日(月)]http://www.ne.jp/asahi/my/maple/analog/fmbc.htm
ホルンがIfor James かどうかは分りません。ホルンはかなり活躍していますが。
大山様
「エレジー」の貴重な情報をありがとうございます。プーランクがバルボトウに曲の断片を見せた時点で、どの程度曲が出来あがっていたか興味がわきます。Ifor James の曲の解釈はあくまで楽譜のみによるものでしょうから、それはそれでひとつの解釈と思います。
ところで、テヴェ先生の演奏した「プーランクのトリオ」はレコードあるいはCDで聴けるでしょうか。レコード会社など分りましたらお教えください。ぜひ聴いてみたいと思います。
「オーバード」の初録音はコンセール・ストララムの演奏(1930録音)と思いますが、ホルンはヴィエルモでしょうか。フルートはモイーズと思いますが。


177.すみません、またまたプーランクネタですが。

name: 大山幸彦 - 2002年10月12日 11時26分52秒

プーランクがエレジーをどのような形でつくったのであれ、献呈がついているのですから、ブレインのことを良く覚えていたかも知れません。またバルボとコラボしていた部分は中間部らしいので、もしかすると序奏のクラッシュの部分はブレイン死後付け足しているかもしれませんが、エルの記事でもこの部分は推測の域を出ていませんからわかりませんが。

プーランクのトリオ、何度かやりました。こちらはテヴェ先生の演奏もあります。まさにプーランクの意図した、ヴィヴラートがみんなで同調した歌と遊びのある演奏です。30-60年代のフレンチ・ヴィヴラート時代の演奏方法は彼のお気に入りだったみたいです。
トリオの時代から、その気運があったみたいですから、プーランクはそれに反応したんでしょうね。若きデュヴェミ(当時24)であった可能性はありますが、ヴィエルモは当時モナコにいたので(彼は若い時代と引退寸前しかパリにいなかった、とても老人の演奏とは思えないですが!)ないと思います(オーバードの初録音では吹いている)。ヴィエルモの年上同僚であった、ペナブルやヴィアレたちの音が頭にあった可能性はあります。ちなみに名手アルフォンスは作曲の2年前に引退しています。


176.「ブレインのように」といえないのが惜しい

name: CATO - 2002年10月12日 9時42分11秒

CD(フィリップス UCCP-3076)を聴きました。ベートーベンの七重奏(89/07/14)と五重奏(84/07/11)のライブです。七重奏はノイネッカー、五重奏はヴラトコヴィチです。ブレインが七重奏の録音を残していなくて残念なことは、この掲示板でも話題になりました。  
 さて演奏ですが、例えばバリリとウイーンの管楽器奏者たちが50年代に残した録音のような、椅子に深くかけて、ホルンなんかはふんぞり返って、悠々と演奏するというイメージとはだいぶ違います。曲全体の雰囲気を支配しているのはバイオリンのツェトマイアーで、なんというか中腰で椅子に触れているような感じです。よく言えば軽快、悪く言えばせわしない感じです。これがギドン・クレメル兄貴に率いられたロッケンハウス風なんですかね。ノイネッカーは破綻の無い感じだけで、別段印象に残りません。模範生的な演奏でした。私としては、この曲はアタックの粒を強調してほしいし、また、中低音を遠慮しないでバリッと吹いてほしい(「ブレインのように」といえないのが惜しい)。ということで、これは私にとって55点程度でした。ノイネッカーで一番のお薦めがあれば教えてください。


175.結婚写真

name: 夢中人 - 2002年10月12日 7時44分42秒

スティーヴン・ペティット著山田淳さん訳の伝記P.128、1945年9月8日、デニス・ブレインとイヴォンヌ・コールズの結婚写真。前列左から花婿付添人のガレス・モリス、ガレスの妻、新郎・新婦、新婦の父、兄レナードとレナードの妻オードリー、後列に花嫁の友人が3名。父オーブリーの姿が無いのは7月に倒れて以来、体調悪く。

オーブリーは1955年9月17日、心臓発作で入院、20日に死亡。同じくペティットのフィルハーモニア管弦楽団完全ディスコグラフィー(Hunt)によると、17日アビー・ロードでトルトリエとフォーレのエレジー、19日キングズウェイ・ホールでマルコム・アーノルドのタモシャンター序曲、イギリス舞曲第3、5番。23日は既に喪中でニコライ・マルコとボロディンの交響曲第2番を録音した記録があります。

デニスは父の葬儀に出られなかった。同じロンドンにいて演奏会のリハーサルや本番、あるいは上記のレコード録音など仕事で休めないのが理由だとしたら、スゴい。疑り深い夢中人は、念を入れてイギリスの熱心家に訊ねてみました。やはり仕事のせいであり、レナードやデニスは子供時代から父親の世界を理解していて、親子関係に緊張は無かった筈、と。


174.コヴェント・ガーデン、ジークフリート

name: 夢中人 - 2002年10月09日 22時05分34秒

デニス・ブレインが別の本番に行く途中に「立ち寄って」第2幕のホルン・コールを吹いた、と言われるワーグナーの楽劇ジークフリート。全部特定はされていませんが、1940、50年代のコヴェント・ガーデン・オペラの記録を掲載しました。


173.掲示板自画自賛

name: CATO - 2002年10月08日 3時13分15秒

またこんな時間に起きだして、カンビール片手に、気楽なインターミッションです。

私素直に思いますが、過去から今までの掲示板を集大成し、適切に配列し、覆面投稿者のクセとかを平均化し、詳細な注、コメントを付けて、できれば英仏独露中訳版でも作成して、名演さわり集のCDのおまけでも付けて、山田淳氏の序文で本を出版すれば、ブレインの墓の再建どころか、発展途上国(古い言い方)の有能なホルニスト奨学金くらいできそうですね。 もちろんエディターは夢中人さん。


172.プーランクの2曲

name: 夢中人 - 2002年10月07日 22時33分27秒

プーランク、ホルンとピアノのためのエレジー〜デニス・ブレインの想い出に捧ぐ。今までその中のホルンのグリッサンドはブレインの車の衝突音だと思っていました!スティーヴン・ペティット著山田淳さん訳の伝記やアンリ・エル著「フランシス・プーランク」(春秋社、P1993)のエレジーに関する記事を総合して、1957年9月1日の事故後に書き始められ、12月に完成した。デニスの2番、ニール・サンダースが1958年2月8日に初演した、というのはやや思い込みの部分もある訳ですね。

大山さんは、プーランクのホルンとトロンボーン、トランペットのためのソナタ(1922)を演奏なさいますか?年代的に考えると、ドヴェミーかヴィエルモを念頭に書かれたと思うのですが如何でしょうか。私、昔ジェームズがPJBEのレコードで吹いたのを聴いて血が上り、無謀にもバンドの演奏会プログラムに入れたことがあります。トランペットの先輩が本番に遅刻して幸い?にもやらずじまいでしたが。


171.プーランクのエレジー

name: 大山幸彦 - 2002年10月07日 15時55分41秒

については、残念ながらジェームスたちの討議とは違う部分があります。
ファンの方の興をそいで申し訳ございません。

バルボトウが語っていた話ですが、ある日プーランクから呼び出され、言ってみると白ワイン片手の彼がいて、ホルンのための小品の構想をピアノの前でバルボトウにいろいろ吹かせ、試行錯誤したそうですが、その日付はデニスが死ぬかなり前です。それはまさしくエレジーの断片だったそうです。

推測ですが、当時結局完成しなかったこの作品を、プーランクは一度お蔵入りしたものの、デニスの死(ロンドンで一緒にセクステュールを演奏している、)をきっかけに加筆訂正し出版したのではないか、と思います。

最初と最後の部分はプーランクが珍しくミュジーク・セリエルの実験をしていたのがわかります。当時昔の仲間のデュレはこちらのほうに傾倒していました。


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