ブレイン四方山話  


我がホルンの調べ消え去りても、
デニス・ブレイン生誕八十年のこの年に、
何か永久(とわ)に残るものを作りたい・・・

第43話「事故の原因」
1957年9月2日のハットフィールドの車庫にあるデニス・ブレインの事故車と車の一部の後部バネが楡の木の幹にささっている写真を見てとてもショックを受けました。車は大破です。車が道路を外れた地点から木のあたりまで芝生を引っ掻いたような溝が残っていました。 溝は長さ207フィート6インチ(約62m)です。車は80から100マイル(約130から160km)の速度で最後の75ヤードまたは75フィート(新聞によって相違、約70mまたは約23m)で転覆して木に衝突したと報道されました。車の後部の損傷具合から車は前からではなく後ろから木に衝突したように思われますがはっきりしたことは判りません。ブレインの体はいわゆるバラバラではないですが首に傷がありました。

車に偶然何かコントロールできないようなことが起きたために操縦できなかったのでしょうか。目撃者のハリエット・アンガス夫人は反対方向で夫の運転するバンで旅行中でしたが9月4日の検視で「猛スピードで近づいてくる車を見ました。カーブで突然道路を外れて芝の縁に上りひっくり返って木に激突しました。」また「衝突前にライトが点滅していました。」と証言しました。

この証言はブレインが居眠り運転なんかではなくて衝突する前に何かに気がついていたという証拠ではないでしょうか。 道路を外れた地点から木までの溝は何か鋭いギザギザしたものが車から外れたために付いたのではないでしょうか。事実トライアンフTR2は軽量のゆえかよくカーブで事故を起こしたのです。しかしそれもハットフィールドの車庫の火事で事故原因の証拠は焼失してしまいました。

ある少年は事故現場付近でブレインの自動車税納付済証票(tax disc) を拾いました。証票はその日が期限だったそうです。またブレインはエディンバラから列車で帰る予定を直前になって車に変更したそうです。運命のその日にです。
2003年10月18日 11時47分45秒

第42話「ブレインの思いで」
あるとき有名なホルン吹きにされた質問「某(ある有名オーケストラの首席ホルン奏者)には無くてデニスにあるものは何でしょうか?」。即答「謙虚なこと」。(ジェームス・ブレイズ、「世界の太鼓叩き」ICRC1998年春号) 2003年09月13日 12時40分18秒

第41話「ハットフィールド」その後
返事が入りました。「デニス・ブレインの事故が起こったウェルフィールド・ロードとA1(ロンドンとイギリス北部及びスコットランドを結ぶメイン・ルート)が出会う場所に行ってきました。現在その地点には有名なホテルが建っており、伝記に書かれているデ・ハヴィランド航空機工場はずいぶん前に無くなりました。でもその場所はきっとすぐ判ると思います。幸運を祈ります!」 2002年02月09日 21時41分31秒

第40話「豆鉄砲(3)」
エド様。おっしゃるとおりデニス・ブレインの「豆鉄砲」は、ヴァルヴを付けたハンド・ホルンでした。しかしながら、彼は複数の「豆鉄砲」を持っていたと思われます。現在エディンバラ大学にあるデニス・ブレインの楽器は、ラバイェによるものですが、ほかに1本、シュトラウスの1番の最初のレコーディングと1950年、RPOとのアメリカ旅行におけうソロ演奏に使ったラウーも持っていました。ファーカソン・カズンズは1940年代末期、デニス・ブレインに1本のホルンを売りました。これはオーブリー・ブレインがプロとしてやり出した頃、先輩だったアルフ・バットンが持っていたものでした。バットンは当時、引退してロンドンのどこかに住んでいたらしく、肘掛椅子のクッションの為に使うバネの仕組みのような、ちょっとした器具の考案をしていました。 ファーキーは、それはラウーだったと言っていますが、実際現在エディンバラにあるラバイェなのかどうか。でも私はおしゃべりやらに興味がありますが、40年代末のことについてコメントする立場にありません。あなたがお聞きになった3番目の「豆鉄砲」奏者は、たぶんファーカソン・カズンズでしょう。彼は、1946年ロンドンでBBC交響楽団で演奏(8人のセクションの7番)していましたが、当時全員が「豆鉄砲」を吹いており、1番ホルンはオーブリー・ソンガーでした。(パウル・カンペン) 2002年02月09日 18時44分18秒

第39話「豆鉄砲(2)」
私は1946年、ギルド・ホール音楽学校でほかの学生からデニス・ブレインの使ったホルンはピストン・ヴァルヴが付けられたナチュラル・ホルンだと聞きましたが、彼らは「豆鉄砲」という言葉は使いませんでした。訂正のご指摘ありがとうございます。私は(少なくともロンドンで)小さいボアとピストン・ヴァルヴのホルンをまだ使っていた3人(オーブリーとデニス・ブレインを含む)のうち3番目は、ファーカソン・カズンズではないかと思っています。この方は長いかな変わった名前だったと覚えています。カズンズ氏は1930年代や40年代初期にロンドンでホルンを吹かれたのでしょうか?(エド・グリック) 2002年02月09日 18時44分13秒

第38話「豆鉄砲(1)」
イギリスでは(必ずしもF管ホルンでなくとも)細ボアの金管楽器のことをすべて「豆鉄砲(peashooter)」と言います。私たちが豆鉄砲のホルンといえばフレンチスタイルの大概Fクルーク(替管)付き細ボア・ホルンで、第2次世界大戦の頃まで一般的に使われていました。1930年代にドイツ製(アレキサンダー)ダブル・ホルンを全セクションで最初に使ったのは、サー・トーマス・ビーチャムのロンドン・フィルハーモニー管弦楽団でした。名手トーマス・バスビーに「牛のホルン」と名付けられたドイツのホルンは、それ以来次第に広まりました。エド・グリックは1946年には細ボア・シングルFホルンを使うイギリスの奏者はたった3人しかいないと聞いたそうですが、おそらくもっとたくさん、殊にロンドン以外では、いたでしょう。ロンドンのプレーヤーは、北方で活動する私達プレーヤーのことを青いタイセイに覆われた先住民のように考えがちです。ファーカソン・カズンズ(現在82歳の若さ)は、1940年代末期のリーズは、最後のセクション全員、常時「豆鉄砲」だったと主張しています。故デニス・スティーヴンスは、1970年ベルファストのBBCの1番ホルンを辞める直前まで「豆鉄砲」を是としていました。ダグラス・ムーアは、1948年BBC交響楽団の首席をオーブリー・ソンガーと交代するとき、「豆鉄砲」からダブルに変えさせました。イギリスのいくつかのブラス・バンド、特にあまり有名でない地方バンドは、「豆鉄砲」ブラスや古き良き「豆鉄砲」バス・トロンボーンと7番ポジションまで届くハンドルをまだ使っています。(パウル・カンペン) 2002年02月09日 15時51分17秒

第37話「ハットフィールド」
ロンドン近郊、ハットフィールドにお住まいの方に、A1アーネット・バイパスにあった楡の木はまだあるのですか?と尋ねました。バイパスは街の南に位置するそうで、その方はもう何度も通ったことがあるとのこと。デニス・ブレインの事故の頃とは随分変わってしまっており、彼が運転していた道は、もうあまり往来が無く、トンネル内に新道が作られているそうです。 「楡」については、今度見に行って頂くことになりました。 2002年02月06日 22時59分38秒

第36話「アルフレッド伯父さん」
ペティットの伝記に、1922年9月、デニスの伯父アルフレッド(アル)は、ロンドンの主要オーケストラ―ロイヤル・フィルハーモニック・ソサエティ、クイーンズ・ホール管弦楽団、ロンドン交響楽団―の首席ホルンを独占していながら、カミさんから逃げ出す為に米国へ移住した、とあります。なんとも格好の夕刊紙ネタのような事件ですが、デニスの父、オーブリーにオーケストラの席が空いたことを考え合わせると、全く数奇な人生と考えざるをえません。結局アルはロス・アンジェルスに本拠を据えて、当地のフィルハーモニックとハリウッドのスタジオ・ミュージシャンとして活躍を始めます。そんなアルがロンドンでの若い頃の思い出が、コヴェント・ガーデン劇場の玄関に貼られた一枚の「ホルン奏者募集、但しイギリス人不可」という紙。現在でこそイギリスは、ブレイン父子、アラン・シヴィル、バリー・タックウェル、マイケル・トンプソン、アンソニー・ワトキンス、デーヴィット・パイアットら営々と続くホルンの名産地と考えられていますが、当時はまだボヘミア人、ジョバンニ・プッツィに代表される大陸からの外人奏者が幅を利かせていました。 ホルン1本でかの地アメリカに渡って、クラシック音楽ばかりではなく映画音楽制作、果ては養鶏の道でも成功してデニスにはちょっとしたアメリカン・ドリームに見えたようです。 20世紀FOX映画では1942年の『海の征服者』(監督ヘンリー・キング、音楽アルフレッド・シューマン、主演タイロン・パワー、モーリン・オハラ)や1944年の『ジェーン・エア』(監督ロバート・スティーブンスン、制作ウィリアム・ゴエツ、原作シャーロット・ブロンテ、音楽バーナード・ハーマン、主演オーソン・ウェルズ、ジョーン・フォンティーン)のサウンド・トラックなどで実に達者なホルンが聴かれますが、恐らくアルの演奏ではないかと思っています。 2002年01月27日 21時10分39秒

第35話「1958年引退予定?」
デニスは1957年、フィルハーモニアの同僚ヒュー・ビーンにこう語ったそうです「1958年には引退するよ。 それからカリフォルニアのアルフレッド伯父さんみたいにイギリスで養鶏場をやろうかな?」 2001年12月02日 22時44分27秒

第34話「猫」
カリフォリニアの友人がまたハムステッドのブレインの墓を訪れました。おかしなことに墓にはいつも首に「シルべスター」という名札をつけた猫がうろついており、遠いところからやってきたようには全く思えない、 またレナード・ブレインの墓にはデニスのと対照的に沢山の花が手向けられていたとか。 2001年12月01日 22時06分46秒

第33話「鋭い指摘」
ペティットの伝記に、ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団のホルン・セクションの写真が掲載されています。1947年11月、ビーチャムとのシュトラウス《英雄の生涯》の録音風景とあり、デニス・ブレインとイアン・ビアズが豆鉄砲(ラウー)を吹いています。 しかしながら、ホルン・セクションのまん前にある楽器は、間違いなくヘッケルフォンで、この作品にはそのパートは無いのです!(パウル・A・カンペン) 2001年10月13日 19時31分17秒

第32話「セレナード初演異聞(3)」
ラルース音楽辞典によると指揮者ワルター・ゲーアは、1903年、ドイツ、ベルリン生れ。ナチスの迫害を逃れて1933年、イギリスへ亡命。1933年から39年までコロンビア・グラモフォン(現EMI)で活動後、1943年、モーリー・カレッジ・コンサートの指揮者になったとあります。 ブリテンの《セレナード》はその年に初演されました。その時の名前の無いオーケストラがモーリー・カレッジ・コンサートだったとすれば、デニス・ブレインは1956年、ホフナング音楽祭で再びモーリー・カレッジ交響楽団と水撒きホース協奏曲で共演した訳で、何とも浅からぬ縁という事になります。 2001年10月03日 21時08分34秒

第31話「セレナード初演異聞(2)」
《セレナード》初演の際のプログラムには��Orchestral Ensemble conducted by Walter Goehr�瓩箸△蠅泙后�ことの起こりはブリテンがワルター・ゲーアがウィグモア・ホールでやっているコンサート・シリーズの為に作品を書く約束をしたことでした。ブリテンの出版社、ブージー&ホークスは、同じホールで同社主催のコンサートを開いていたため、これに抗議しました。 その妥協案として、《セレナード》初演のコンサートは、ブージー&ホークス主催、ゲーア指揮ということになりました。 2001年09月27日 22時05分28秒

第30話「セレナード初演異聞(1)」
あるベンジャミン・ブリテンとピーター・ピアーズ、デニス・ブレインのファンという方からブリテンの《テノールとホルン、弦楽のためのセレナード作品31》の初演オーケストラに関する指摘がありました。スティーヴン・ペティットの伝記などによると、《セレナード》は、1943年10月15日、ピーター・ピアーズ、デニス・ブレインとワルター・ゲーア(ヴァルター・ゲール)の指揮によってロンドン、ウィグモア・ホールにて初演され、レコード録音(ブリテン指揮ボイド・ニール・オーケストラ)も同じメンバーで行われた、とあります。ところがハンフリー・カーペンターによるブリテンの伝記やマイケル・ケネディーの著作では、「あるオーケストラ」と記述されているのみで特定されていない。またブリテン自身の当時の手紙などにも一切特定のオーケストラについて触れられていない、ゆえにボイド・ニールではない、という論法です。では一体どの団体だったのか?いま少し検証が必要です。 2001年09月23日 21時39分03秒

第29話「売りに出された楽器」
2000年はデニス・ブレインの楽器、ラウーが1本売りに出された、というショッキングなニュースで幕を明けました。早速買主のイギリス人に、ベルフレアーやピストンに刻された文字を教えて欲しい、と頼むと「喜んで、写真も送る」との返事。私は小躍りして喜びました。
ところが、いつまで経っても返事が来ない。一体どうなったのですか?と問合せると痛々しい答が帰ってきました。「デニス・ブレインのラウーを買おうとしてとても酷い目に遭いました。売主が一度決めた値段を吊り上げてきたのです。仕方なく上がった値段にも同意したところ、何と売主はまたもや心変わりして、もう売らないと言うのです。それで買えなかったのです…」
そして1年たった2001年秋、今度はデニス・ブレインの最後のホルン、自動車事故で壊れたアレキサンダー Bb/A 、がロンドンのパックスマン工房で売りに出されている、とのニュース。事故後パックスマンが完璧に修復、ラッカーを塗り直して新品同様となったあの楽器です。
2001年09月22日 00時06分36秒

第28話「変なレコード」
ある方にデニス・ブレインとグリラー弦楽四重奏団によるモーツァルトのホルン5重奏曲(1943年録音、フランスDECCA盤SP、GAG1138-39)を聴かせて頂きました。そして手持ちのアメリカ盤CD、LONDON425 960-2と聞き比べて大変興奮しました。一部明らかに違います!
フランスDECCA盤の第1楽章3分10秒付近で、デニスは下降音階の最初の音、Aを外していますが、LONDON盤ではミスはありません。明らかに判ります。またこれは少し怪しいかもしれませんが、同じ第1楽章で僅かに短調になるところでヴァイオリンのグリラーがポルタメントを「少し」かけますが、LONDON盤では「かなり」ポルタメントをかけます。
またこれは音楽自体に関係ありませんが、番号が一見して「変」です。レコード1枚目(レコード番号GAG1138)のマトリックス番号は、A面がAR8742-2、B面がAR8745-2、2枚目(レコード番号GAG1139)のマトリックス番号は、A面がAR8743-1、B面がAR8744-2、つまり楽章が1→4→2→3の順になっています。
私が不審がるのを見て、その方は笑って言われました「オートチェンジャー用のレコードなんですよ…」私は思わず唸ってしまいました。
2001年09月18日 21時03分23秒

第27話「初期のホルン」〜講演リサイタル
今年出たBBCレジェンド(BBCL4066-2)のボーナス・トラックに収録された1955年7月23日放送のデニス・ブレインによる講演リサイタル「初期のホルン」でペティットの伝記の付録ディスコグラフィーに記載された曲目が全て欠落しているのを不審に思ったのは私だけでしょうか。
この演奏録音はもともとブリストル大学の教授だったケネス・モッブズ氏が個人所有していました。彼のマスターテープにはバッハ、カンタータ第208番「狩りだけが私の喜び」、ヴィヴァルディの2本のホルンのための協奏曲、モーツァルトのホルン協奏曲断章KAnh98a、ロセッティのホルン協奏曲、シューベルトの「流れの上で」などを含むオリジナルの番組内容が全て録音されていました。
1979年、BBCはデニス・ブレインの放送録音をLP化するために氏からテープを借り受けました。ところがBBCのエンジニアはLP(REGL352)に収録した部分以外を誤って消去してしまいました。事前にコピーを取っていなかったため、オリジナルは永遠に失われました。
2001年09月09日 21時34分51秒

第26話「雑誌タイム、1953年7月6日号」
デニス・ブレインのバズィングに関する有名な言葉をご存知ですか?それはもともと1950年代はじめ頃の雑誌『タイム』に載った「若きホルン吹き」という記事に出ていました(第7話参照)。『タイム』のような雑誌にこのようなホルン奏者の記事が出たのはこれが初めてのようです。大抵書かれるのは、指揮者やピアニスト、ヴァイオリニストか有名な大オーケストラのコンマスですからね。ひとりのホルン吹きを取り上げた記事というのは例が無いもので、ホルンという楽器への道しるべとなりましたし、デニスは現在もホルンで特に有名です。そのほか、この記事にはフログナルの自宅の居間にあるふかふかの長椅子にアレキサンダーを持って座っている写真があります。注目すべきは、彼が目に大きな「くま」を作っていて、とても疲れているようにみえることです。読者には、いつもならヴァイオリニストやピアニスト、指揮者のポーズを取った写真が雑誌のページを飾るのとはかなり対照的に見えます。ここにはまさに雑誌『タイム』に登場した最初のホルン吹きという時の人となろうとして真剣になっている一人の男がいます!(1996年、ワルター・ヘック「ホルン・シグニフィカNo.5」 ) 2001年09月07日 21時52分24秒

第25話「最後のリサイタルで」
デニス・ブレインが亡くなる直前、エディンバラ音楽祭でのリサイタルでアンコール・ピースの《バスク人》とともに演奏した《ヴィラネル》オリジナル・レコーディングを聴いた方はいらっしゃいますか?DBがその《ヴィラネル》の最後の高いCを「外した」ことについて語っています。彼が(大喜びの)観客に何と語ったでしょうか?市販盤には彼の《バスク人》 を紹介する言葉は収録されず、この《ヴィラネル》の後のコメントだけでした。「あれー、こんな事があるなんて(Well, Fancy that!)」(1996年、ワルター・ヘック「ホルン・シグニフィカNo.11」) 2001年09月02日 22時16分20秒

第24話「残されたブレイン家の人々その後」
1994年、ロンドン、ハムステッドはフログナルでのEnglish Heritageによるデニス・ブレインの記念標識除幕式で、私はイヴォンヌ・ブレイン夫人と彼女の息子トニー・ブレインに会いました。私はブレイン夫人と息子さんがとても若く見えるのに大変驚きました。彼女はたしか当時すでに70歳、息子さんは42歳くらいでした。でもイヴォンヌ夫人は55歳、トニーは30歳位に見えました。 トニーは父デニスにソッくり、髪は黒で少し縮れ毛、父親より背が高い。彼はさんざんホルンを吹きましたがいつしか諦めていました。(イギリスホルン協会、スティーヴン・ギャンブル) 2001年09月01日 21時44分51秒

第23話「1818年製ラウー」
1949年、プロムスでデニスはシュトラウスのホルン協奏曲変ホ長調を1年前にコレクションとして買った楽器で吹きました。1818年製ラウーでヴィクトリア・アルバート博物館にも二つしかない珍品でした。
彼もいつものラウーが壊れるまでこの楽器を吹くとは考えてもいませんでした。以前から使われてなかったのでその時まで持っていたのです。デニスはプロムスの演奏会の後、この楽器は息と埃が合わさって出来る「内層」が無いので使われなかったんでしょう。「内層」に一番良いのはウィスキーです(笑)。と言いながら、自分は一杯のオレンジエードを飲んでいました。
(C.B.リー、「ロンドン・ミュージカル・イベント」1955年9月号)
2001年07月25日 22時15分46秒

第22話「RAF時代(下)」
この重要な番組の付随音楽の作曲家はベンジャミン・ブリテンでした。言うまでもなくデニスは彼に首っ丈でした。ブリテンも魅惑されて毎週日曜午前3時、デニス・ブレインのホルンの技術的な特徴や彼独自のスタイルを探り出そうとしました。その結果がいまや世界的に有名なブリテン最高の作品、まったくコンチェルトにあらず、テノール、ホルンと弦楽のためのセレナードでした。ブリテン「て言うか君はハイFの音を思い通りに出せるかな」デニスはすぐさま「もちろん!」と答えたうえに「試しにゲシュトップでどうかなあ」というアイディアも出しました。これらは全て「エレジー」に取り入れられ、この作品のメチャクチャ難しいけれど感動的なパッセージのひとつとなりました。何度とない実演でも、私の知る限り、デニスは一度も間違いませんでした。
ブリテンの使ったもうひとつの手法が自然倍音。ややもすると不自然で調和音階に慣れきった耳には音を外したように聞こえます。事実、ブリテンがこれを使った「プロローグ」と「エピローグ」でデニスが音を間違ったと一度ならず難癖を付ける批評家もいました。
2001年07月24日 22時46分04秒

第21話「RAF時代(中)」
予想どおりデニスの名声は瞬く間に広がりましたが、自信は付いても思いあがりはありません。デニスの凄いところは自惚れることが一切無い、というところが大切です。どこまでも真っ直ぐで、たまたま一番上手にできたから最高に嬉しい、と考える小学生のようでした。それからデニスは作曲家に会うたびにコンチェルトを書いて欲しいと言っていましたので、私達は随分からかいましたが、ちっともイヤな感じはありませんでした。彼らはたいがい書いてくれましたので、デニスの書棚には聴いたことのないようなコンチェルトが一杯ありました。こんな活動の最たるものが、RAFオーケストラで週1回、深夜のアメリカ向けの放送番組に出演したときのことでした。 2001年07月23日 22時30分19秒

第20話「RAF時代(上)」
1939年秋、デニスと私の最初の出会いはアクスブリッジのイギリス空軍(RAF)の兵舎でした。それぞれ事実上まだアカデミー(王立音楽院)とカレッジ(王立音楽大学)の最上級の学生でしたが戦争が始まりました。どちらもまだプロとして仕事を始めていませんでしたが、デニスはオーブリーの息子として、潜在的に名プレーヤーであることは明らかでした。デニスは既にクイーンズ・ホールでのブッシュ・チェンバー・プレーヤーズのバッハとモーツァルトの特別演奏会に出演したり、父親とレナー四重奏団のモーツァルト、ディベルティメント17番K.334の録音もやりました。このレコードはデニスが2番を吹いた唯一のものに違いありません。
 セントラル・バンドでは、毎日毎日、一緒に座って際限の無い、つまらない曲や刻みや後打ちばかり(軍楽隊のホルン・パートはおもしろくない(dull)ので有名)を自分たちや、お互いで楽しいように1001通りに違えて吹いていました。どうしてこんなに早く親しくなったか判りませんが、3ヶ月で無二の親友となって、片方だけでバンドの短いツアーに遣らされたりすると、いつもポストがお互いへの手紙ですっかり一杯になる位でした。(ノーマン・デル=マー、「デニス・ブレイン讃」、グラモフォン・レコード・レビュー1958年10月号)
2001年07月22日 15時23分55秒

第19話「エリザベート・ラトイェンス/ホルンと小オーケストラのためのチェンバー・コンチェルト第4番作品8の4」
フルスコア「ペンセローソ」「アレグロ」楽章、未完、第2楽章は終結部なし。鉛筆書き。フルート、クラリネット、バスーン、ダブル・バスーン、トランペット、トロンボーン、ティンパニ、パーカッション、ソロ・ホルンそして弦楽。1ページ18段。削除、変更、校訂あり、第2楽章のオーケストレーション一部未完。52ページ。1946年。 2001年07月21日 10時12分40秒

第18話「続々ダビーの思いで」
アカデミーでは自分達で室内楽をやりました。管楽器とピアノのためにはモーツァルトとベートーヴェンの素晴らしい五重奏曲があり、デニスはよく「なかでもモーツァルトが一番だね」と言ったものです。デニスの兄のレナードがオーボエを吹きました。これがベートーヴェンのソナタを(1944年に)録音するきっかけとなりましたが、ホルンとピアノのための曲はレパートリーがご存知のようにシューマンやデュカ、ヒンデミットやフリッカーのソナタに限られていていました。デニスはとても一緒に練習しやすい、根っからのアンサンブル・プレーヤーでした。その才能たるやテクニックが付いて廻ることの無い、天性の柔軟なフレージングとダイナミクスで廻りの仲間にピッタリくるものでした。 2001年07月20日 16時26分12秒

第17話「続ダビーの思いで」
16歳のデニスは既に将来世界的に有名になると思える位上手でした。実際そうなってからも、相変わらず魅力的で謙虚さを全く失いませんでした。彼は「オーケストラで父親の隣に座ること」を願っていました。私はそれが実現した場に少なくとも二度いたことがあります。一度はブッシュ・チェンバー・プレイヤーズの演奏会、2本のホルン・パートのあるブランデンブルグ協奏曲第1番で、友達数人でクイーンズ・ホールの舞台席でこのブレイン家の歴史的イベントを間近で見ました。二度目は12年後、フルトヴェングラー指揮フィルハーモニア、デニスは1番、オーブリーは誇らしげに3番、世代交代という訳でした。 2001年07月19日 21時49分49秒

第16話「ダビー(Dubby)の思いで」
私がデニスに出会ったのは1937年、(王立音楽)アカデミーのオペラのクラスでプッチーニの「三部作」の稽古をやった時のことでした。これら三つの一幕ものオペラの2番目「修道女アンジェリカ」で私はピアノ助手をして、舞台裏で同じように見えないコーラスのタイムキーパー兼合わせ役、つまり舞台効果みたいなことをしていました。でも私は舞台正面のオーケストラから聞こえる、とても雄弁な音にドキドキしっ放しでした。「あれがオーブリー・ブレインの息子のデニスさ」と囁く声がしました。(デニス・マシューズ「音楽を求めて」、ゴランツ、1966年) 2001年07月18日 21時33分28秒

第15話「謙虚な人」
デニス・ブレインはフィルハーモニアとロイヤル・フィルハーモニーのどちらからもヒッパリだこでした。彼ならできましたし、もし選ばれれば、世界中のどのオーケストラでも1番ホルンになれたでしょう。でも本当にデニスらしいと思ったのは、あるとき全く無名のオーケストラに出ている彼を見かけた時でした。たまたまヒマだし、仲間が病気で出られないから助っ人でね、と言って。プロとして名だたる演奏家で、こんなに謙虚な人がいたでしょうか。デニスは音楽そのものに尽きぬ喜びを感じていました。練習や本番の彼を見ていると、それがこっちにも伝わってくるのです。(デニス・マシューズ「音楽を求めて」ゴランツ出版、1966年) 2001年07月17日 22時46分40秒

第14話「フィルハーモニア写真集」
カリフォルニアの友人は、ロンドンはチャリング・クロスの古書店、トラヴィス&エメリーにスティーヴン・ペティットの本『フィルハーモニア写真集(The Philharmonia in Pictures)』を注文した、と言います。とても入手しにくいそうですが、デニス・ブレインが大きく写っているとか。未確認情報ですが、もし本当なら一度見てみたいものです。 2001年07月16日 21時50分17秒

第13話「BBCアーカイヴの欠落を埋めろ」
BBCレジェンドの第1回発売後の1999年春、イギリスのクラシック・コレクター誌、ICRCに一風変わった募集記事が出ました。「BBCアーカイヴは巨大なものですが、非常に欠落(gaps)もございます。1950年代のサーバタやカンテッリなどの録音は全くありません。そこでBBCとIMGアーチストは共同して熱心家の方々や、あらゆる組織、海外の放送局により保存されている重要な放送録音を探しています。あなたは1950年代か1960年代初期に、良いオーディオ装置をお持ちでしたか?あなたは初期のVHFレシーバー、あるいはアセテート・ディスクに入れませんでしたか?それともお馴染みの黄色い封筒に入ったBBC放送レコードを持っていませんか?BBCが全ての費用をお持ちして、あらゆる著作権上の問題も解決致します。最初にテープを送らずに、まずご連絡下さい。IMGアーチスト(ロンドン)、スティーヴン・ライト」
この一見なりふり構わない呼びかけにより2枚のCD(BBCL 4066-2 & 4048-2)が生れました。特に2枚目のデニス・ブレイン管楽アンサンブルのダリウス・ミヨー/組曲「ルネ王の暖炉」は欠落していたものにあたり、音源提供者のアーサー・リッジウェル氏の名前がクレジットされています。
2001年07月15日 17時51分31秒

第12話「証言・ブランデンブルグ協奏曲第1番」
私達はボイド・ニールとブランデンブルグ協奏曲第1番を録音しました。印刷されたパート譜が、古いおきまりの校訂で面白くないので、原典の形をバッハが二つのカンタータに改作したもの引用している教則本から関連する楽章を吹きました!デニスが譜面の必要なところを書き換えると、このヒース・ロビンソンによる二本のホルン・パートはとても面白く、大変難しい曲というよりも、どこも最高に楽しい特別な一日となりました。(ノーマン・デル=マー「デニス・ブレイン賛」、1958年10月、雑誌グラモフォン)
私自身嫌な経験があります。ブランデンブルグ協奏曲の12年ぶり(1956年)の再発売でのことです。レコードをかけてみると、最初の3曲のどの楽章もオリジナルの録音よりずっと速いか遅いのが判ってぞっとしました。でも信じられないのはピッチが同じなのです!私はデッカ社に即刻回収を求めました。当初デッカは知らぬ存ぜぬを通しました。それから何か間違いがあるなら、オリジナルテープを見つけて会社に持ってこいと。告訴の恐れからか、デッカは突然にも誤ったテープを発見し、すべての再プレスには正しいテープを使用したいと。しかしながらあの欠陥品は、いまだに私の作品として売られています。(ボイド・ニール「私のオーケストラとそのほかの冒険」、1985年、トロント大学出版)
2001年07月14日 14時44分25秒

第11話「デッカ物語」
先日レコード屋さんで貰った「―デッカ物語―スペシャルCDサンプラー付き」はとても面白いです。DECCAの由来が第1次世界大戦で前線の兵隊さんの為に開発されたデッカい音のする携帯用蓄音機だったとは知りませんでした。また第2次世界大戦中、ドイツの潜水艦を発信音により識別するためのレコード録音技術が、耳のロゴマーク、FFRR(全可聴域録音)のそもそもの始まりだったことは有名な話です。
デニス・ブレインはヘルベルト・フォン・カラヤンとのモーツァルトの協奏曲が余りにも有名な為に、EMIの専属アーチストのように思われがちですが、20台半ばまではイギリスのクラシック・レーベルもう一つの雄、DECCAにもかなりの録音を行っていました。しかしながらデニスのデッカ活躍期は日本の場合、敗戦の混乱と重なり、すぐにLP時代に入った為に、逆に全く未体験のまま今日に至っています。
イギリスのレーベル、ビューラーによるデッカ物語(こちらは「デッカの敗北」というタイトルですが)はやや違うニュアンスを伝えています。「1980年、1929年以来デッカ社の社長だったジョセフ・ルイスは社をポリグラムに売却し、その12日後亡くなった。新しいオーナー達はデッカのSPの金属原盤を全て廃棄処分にした・・・」つまりレコード会社にはもう原盤は無く、高齢のコレクターの持つSPレコードがいまや唯一のもの、という事実を示しています。
それにしても腑に落ちないのは、カラヤンのホルン協奏曲と同じ1953年11月に録音されたブリテンのセレナードの再録音、1956年のボイド・ニールとのブランデンブルグ協奏曲第1番(ボイド・ニールの著書「私のオーケストラとそのほかの冒険」等では第2ホルンがノーマン・デル=マーとあるが、これは間違いでニール・サンダースが正しい)の再録音などのLPレコードがこの日本で未だ一度も発売されたことが無く、欧米でCD化もされないこと。なにか遺族との契約上の問題があるのか、それともSP原盤同様、データ・ロストの状態にあるのか…謎です。おりしもデニス・ブレイン生誕80年の今年、デッカが出したブリテンのセレナード、1944年録音(DECCA 468 801-2,P2001)は9年ぶりの再発売です。
2001年07月13日 23時18分04秒

第10話「マイソールのマハラジャ」
マイソールのマハラジャ←マイソールのマハラジャ(1995年、フィルハーモニア管弦楽団50周年記念誌より)
 舞台美術家の妹尾河童さんの著書『河童が覗いたインド』(新潮社、1985年刊)にマイソールのマハラジャ・パレス(宮殿)が出てきます…『マハラジャ・パレス』の前に立って、「ウヘェー!!」と思ってしまった。やっぱりド金持ちの本宅ともなると凄い!確かに参った…
フィルハーモニア管弦楽団の草創期、1946年、ウォルター・レッグがここにマハラジャを訪れ、大王の好きな曲のレコード録音(ヘルベルト・フォン・カラヤンとのバラキレフの第1、ルーセルの第4交響曲など)の見返りとして年1万ポンドの助成金を取りつけた場所です。
レッグの回想録『レコードうら・おもて』では「故クリシュナ・メノン首相が意地悪く仲に割って入って、2年目からの助成金を5千ポンドに減額し、おまけに、それも2年続いただけで、その後完全にストップしてしまったのだ」とありますが、インドは当時マハトマ・ガンジー指導のもと独立運動の真っ只中にあって、1947年8月独立、首相はネルー(ネール)でメノンは駐英高等弁務官でした。
マハラジャ宮殿は現在、博物館として公開されており、建物の一部には王の子孫が今も住み、週末の夜には壮麗なイルミネーションに飾られるといいます。
2001年07月12日 21時45分50秒

第9話「イヴォンヌ夫人のこと」
ある友人が6月にロンドンのホルン工房、パックスマンを訪れデニス・ブレインの珍しいポートレイトなどお土産に買いながら、店員に尋ねました「イヴォンヌ夫人はお元気なのですか?」店員「ええ、ずっとお元気(carrying well)です。この前などハムステッド教会の慈善コンサートに若いホルン奏者と一緒に来られましたよ。」 2001年07月11日 21時57分16秒

第8話「ブレイン家の人々」
ある人からブレイン家系図などについて指摘がありました。デニスの兄、レナード・ブレインにはロジャーのほかもう1人マイケルという息子がいて、ロンドンで音楽をやっている、と。また王立音楽大学(RCM)にあるオルガン奏者の名簿にはA.P. Brainの名前があり、それは実はデニスの長男、アンソニーで住所はイヴォンヌ夫人と同じである、と・・・。 2001年07月10日 23時03分30秒

第7話「ホルン演奏法についてbyデニス・ブレイン」
(デニスの控え目にして判り易い説明)「スマイル、て言うかちょっと口を伸ばして口角を上げて、それから[ここで彼はスゥーッ(thhsp)!と小さな息をたてる]舌の先で髪の毛、それも小っちゃいやつをはじき飛ばす感じ。それだけの話です。」(TIME誌、1953年7月6日号より) 2001年07月09日 21時51分35秒

第6話「あ痛たっ、ネットショップ」
半年前インターネットショップ・アマゾンUKで、Dennis Brain/BBC Legend (BBC Music ISBN 4911404825)という本を見つけ早速注文しました。配送に1ヶ月かかるとありましたので指折り数えて待っていたところ、ちょうど1ヶ月目に「さらに1ヶ月かかります」とメールが入り、まあ仕方あるまい、とさらに待ちました。同様のお詫びメールが一月毎に2、3度来たかと思ったら「結局努力しましたがダメでした。もう何を言ってもムダです」てな感じの最後通告メールがきて驚きました。きっとコンピューターが自動的に送信してくるのでしょうが、アマゾンUKには相変わらずその本が「1ヶ月で配送」で提示されているのには参ります。 2001年07月08日 15時09分11秒

第5話「趣味、車」
さいたま市、旧大宮市役所の近く、ハタ・プラザというところに1900年から1970年代にいたる世界の名車コレクションが100台ほども展示されているクラシックカー博物館があります。普通なら「あーそう」で終りですが、ここはチョット違います。1954年、あのヘルベルト・フォン・カラヤンがフィルハーモニア管弦楽団のルツェルン国際音楽祭出演の際に、デニス・ブレイン一家に貸してくれたのと同じメルセデス・ベンツ300SLクーペ、通称Gull wing(カモメの翼)が置いてあります!色は真っ赤です。ほかにデニスが最後に乗ったトライアンフTRスポーツ(残念ながらタイプ2ではありませんが)も。この日本でもデニス・ブレインを偲ぶことのできる場所です。(デニス・ブレインの愛車暦はこちら。) 2001年07月07日 10時48分13秒

第4話「2倍盛り」
伝記のそこここに登場する「食」に関する話は、デニス・ブレインの愛すべき性格がとてもよく窺われ大好きです。9歳の時、手術の失敗で嗅覚を喪失、乏しい味覚にも拘らず、空軍音楽隊生活でのミルクやパン類への好み、ヴォルフガンク・サヴァリッシュとのシュトラウスのコンチェルトのレコーディングで午前中の第1番で唇はバテバテだったのに、昼にいつものキャンティーンで2倍盛りのスパゲッティを平らげて、午後の第2番はたった1回の通しでソロはOKが出たこと等々。英グラモフォン誌1958年10月号、ノーマン・デル=マーによるデニス評からもう一つ。「デニスはいつもチャルフォントの僕の実家に来ては母親にT.T.かT.P.お願いします!と言って、とても甘いタルト(T.T.)やとても甘いプディング(T.P.)をそれこそ山盛り食べ尽くしました…」 2001年07月06日 22時57分12秒

第3話「実(げ)に熱心家というものは」
カリフォルニアのメール友達が6月にロンドンに行くというので、例のハムステッドの地図を送り「巡礼」を勧めました。先日墓参りが出来た、という喜びの葉書が届きました。デニス・ブレインの墓があるハムステッド墓地は地図で見ても広大で、案内無しには全く困難と思われましたが「私はやりました!よく降る雨でお墓は大概草ぼうぼうでしたが、デニスの墓は誰か(多分イヴォンヌ)がいつも世話をしているようできれいでしたよ。偶然デニスの3つ右、2列下はレナード・ブレインの墓でした…」また、その葉書というのがナショナル・ポートレート・ギャラリーの土産品で、机の上のアレクサンダーとアンニュイな表情のデニス・ブレインという構図(ノーマン・パーキンソン、1953年撮影)の素晴らしいもの。全く熱心な人です。 2001年07月05日 22時21分46秒

第2話「ホルニストという仕事?」
ノーマン・デル=マーの退団(→指揮者転向)の際にフィルハーモニアに入り、以来ずっとデニス・ブレインと一緒に吹いていたエドムンド・チャップマンという人。ホルン・メーリングリストより彼の逸話を二つ。(その1)電話…「私の演奏料は15ポンドだよ!」「◎〜$^※?」「そう、デニス・ブレインが13ポンドしか取らないのは判ってる。でもデニスは出れないんだ。もし彼が君なら私になんか頼むもんか!」…うまくやるもんです。(その2)あるレコーディングで、チャップマンは大きな指輪をはめてきて、セッションが終り近くになると決まってそれでベルを叩く。エンジニア達が残り時間で雑音の原因を調べているうちに、全曲収録のための超過時間演奏料が払われるという按配。そんなチャップマン、後年BBCライト・ミュージック・ユニットの第1ホルンで1970年代まで活躍していました。(2001年2月21日、イギリス・ノーザン・フィルハーモニア第4ホルン奏者、パウル・カンペン) 2001年07月04日 23時11分48秒

第1話「我を律する」
デニス・ブレインの唇(くちびる)に1万ポンドの保険が掛けられていたことは有名な話です。明日の演奏(仕事)に差し支えるようなことは一切避けて、毎日スケール(音階)とロングトーンを欠かさない。ちょっと耳が痛いですね。米タイム誌、1953年7月6日号に、そんなデニスのもう一つの凄い一面が紹介されています…彼は一つの例外を除いて全てのスポーツを避けている。その例外とは「卓球」。理由はピンポンのボールはまず自分にダメージを与えることはないから。… 2001年07月03日 23時56分40秒

ホームページ