Y 忘れざるルシアン・テーヴェ Z
掲示板(68-77)
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77.昔のLP
投稿者:夢中人 - 2001年 05月 06日 15時 37分 08秒
明石の実家で昔聴いたLPを引っ張り出しました。コロンビアの千円盤(パルナス1000シリーズ)でトゥールーズ管楽アンサンブル(Hr:ルネ・ヴィダロ)のミヨー「ルネ王の暖炉」やプーランク六重奏(録音1963年9月16日上野文化会館小ホール)、ビクターのカリオペシリーズ、サン・サーンスの管楽器のためのソナタ、かねて問題のヴェスコーヴォのモーツァルト全曲もありました。ヴェスコーヴォについてジャケット解説には「ラルース音楽辞典にものっていないのでお手上げ」やら幻のホルン奏者やらの言葉が並んでおりました。パリ音楽院のラヴェルのレコードにもテーヴェのテの字も無いと思いきや、レコード盤のレーベル部分に発見しました(Solo
Horn: Lucien Thevet)。当時はそれを知らずに聴いておりました。

ロータリー式ホルンを吹くヴェスコーヴォ↑
76.極上の『側室』
投稿者:KAZU@こるにすと - 2001年 05月 06日 15時 22分 35秒
大山氏に公開されてしまいましたが、こちらでも以前紹介したセルマーのロータリーモデル495
/ 84
ベル径295mmの細ベルタイプをおととい購入しました。以前から興味はあったのですが、今回在庫一掃セールということで定価の6掛け程度の価格で購入できました。ラッキーでした。
モデル
495 / 82
ベル径305mmのモデルもあったので吹き比べてみたのですが、両方ともF/B両方の管および低音から高音までまんべんなく明るい音色で鳴るすばらしい楽器でした。特に細ベルタイプのほうは音色、音のまとまり、抵抗感などがかなりピストンに近い感触になっています。大山氏所有のテーヴェモデル下降管のような感じです。やはりガンティエおよび闇将軍が開発しただけのことはあります。
但し大山氏が以前ここに書いたとおり、セルマーはあまりこのホルンの売り込みに熱心でないため、日本を含めた外国はおろか、フランス国内でもあまり売れてないようです。もともと上記二氏にうるさくいわれて仕方なくつくったようなふしがあるため、いつ生産中止になってもおかしくない状態なのでは?そもそも今のセルマーはアメリカ資本(バック)の傘下にあるため、アメリカで売れる製品(SAX等の木管楽器)のことしか頭にないようです。
私の購入したお店(セルマーの日本総代理店)でも今回2台が売れた(もう1台は私と同じオケの女の子が購入)ので在庫ゼロとなり、今後も注文がない限りは仕入れることはないようです。いい楽器なのにもったいない…日本人にとっては鳴らすのにエネルギーのいるアレキのような楽器よりも、楽に鳴らせて労力は音楽の中身の充実に向けられる楽器のほうが向いてると思うのですが(音質も非常に豊かですし)。
ところで先日1993年のフランス国立管来日公演のビデオを見ていたら、主席のカンタンがセルマーのロータリーを吹いていたことに気づきました。このモデルが市販されたのは確か1995年以降だと思ったので(大山君間違ってたら訂正して!)このときのは試作品だと思います。ちなみにこの楽器の開発者のガンティエ(同主席)は隣でアレキ(たぶんモデル200)吹いてました。また副主席のドゥルプランク(Delplanque)はアレキの上昇管(モデル202か203)でした。楽器の選択をみてもパリ管に比べてフレンチスタイルがまだ残っているなと思いました(大山氏が言うところのポストフレンチエコール)。
私にとって細管ピストンはやはり何物にも替えがたい魅力を持つ『正室』ですが、細ベルロータリーも魅力的な『側室』として使っていきたいと思います(特に音量を要求される曲でも音質を荒らさずにゆとりをもって吹けるのが強みです)。
75.カズ様
投稿者:大山幸彦 - 2001年 05月 05日 21時 24分 45秒
今度細管ロータリー・セルマー吹かせてね!
ピストンの限りなく近い音を堪能しに、今度行きますから。
74.ブルームにある意味同情
投稿者:大山幸彦 - 2001年 05月 05日 21時 15分 54秒
したい気持ちもあります。(パリ管に対して)言葉を選ばなくてはなりませんが、当時のパリ管のアンサンブルはソシエテのそれを越えた、などという水準では、、、、
また、シューマンの最高音を出さなかったとしても、そもそも彼の特質は別の利点にあったと思うので、いろいろストレスは多かったと思います。
フランスものの普及を避けている理由の一つとして、異常な高音域の多用があると思います。これは奏法の問題もあるので、現在の太管では難しい場合もあるかもしれません。テーヴェが言いたかったのもブルーム個人への批判ではなく、極端に違う文化が一つの土俵にあることへの違和感ではないでしょうか?やはり、演奏者は彼にあった場所で吹くのが一番でしょう!
例えば、夢中人さんご指摘のケルの美しいヴィヴラートは美しいイングランドの花であり、ブレインとは共通の根ではありますが、同じヴィヴラートを使用したクラであってもランスロとはあまり関係ないはずです。ホルンでも、私個人の意見としてはあまりヴィヴラートを多用しなくてもガンティエやマロー、ルロアールにはテーヴェと同じ根を感じます。(ヴィヴラートを多用するスラヴ系の高名な人たちなどよりも)テーヴェ本人もフランス文化の中に自分がいる、という事を強く意識していました。ですから、本当はブルームはずっとクリーブランドでいて欲しかったですね(でも指揮が変わるとやはり居心地が悪くなるのかな?)
またいろいろご教示ください!
73.感謝いたします
投稿者:孫弟子 - 2001年 05月 05日 06時 50分 30秒
大山様、お忙しいところ、このページの常連の方なら常識であるような事柄を、私のために再度組み立てて書いていただきまして本当に感激いたしました。
私の辞典として、また私以外にもピストン愛好家が増えるように、↓のブルームのページのアドレスに追加として収録させていただきました。よろしくお願いします。
72.孫弟子様へ
投稿者:大山幸彦 - 2001年 05月 04日 21時 45分 00秒
丁寧に痛み入ります。実はブルームの位置把握という点ではもう少し前から関連した事項を説明した方がいいと思いますので、付記します。
戦後(1960代)フランスにおいて最初にホルンのフレンチスタイルに異議を唱えたのは、他ならぬミュンシュだったのです。ごぞんじのとおりアルザス人ミュンシュの中には独仏双方の血が流れており(シュヴァツアー博士と親戚)、まずドイツ系音楽家ムンヒとしてキャリアをスタートした後(ゲヴァントハウスのコンサートマスター/一次大戦はドイツ軍として参戦)、パリに来た彼は「ミュンシュ」としてサロンの寵児(美男子)そして夫人の資産の力もありソシエテの指揮者になります。そしてゴーベール時代から度々登場していたフランス派の大天才テーヴェをソロにしました。バルボトウの話によると、彼はテーヴェの音しか眼中にない位お気に入りだったそうです。
しかしボストンの指揮者になると、元の「ムンヒ」の部分が強くなり、ホルンの嗜好も確実に変化したようです。少なくともドイツ物ではフランス風に吹かない様フランスのオケにも求め始めました。
そうはいってもパリ管再編のときにはテーヴェはソロの要請を受けましたがテーヴェはこれを辞退しました。(パリ管はソシエテと違い他との兼務を認めなかった。彼は芸術的かつ現実的理由からもう一つのソロ・オペラの方を選択した。この時テーヴェ53歳)
その結果再編されたパリ管のメンバーはこうなります。
1・Roger
Abraham アブラム おそらくストラスブールから移籍
3・(1)Michel Garcin Marrou マロー
オペラコミークから移籍
2・Robert Tassin タサン ソシエテから継続
4・Robert Navasse ナヴァッセ
ソシエテから継続
?・Georges Suc シュック
?
こんなかんじで、アブラムが上昇ロータリー(多分アレキのセミ)、他がピストンという構成でした。アブラムはミュンシュが招聘したと推察しています。このセクションは大黒柱テーヴェがいないものの、十分ソシエテのフランス的特質も持っていました。そしてドイツ=アメリカ的サウンドを望みはじめたミュンシュとも妥協点を見出せた、と思います。特にナヴァセ(1919−)はフレンチスタイルの名手であり、この時代にパイヤールのソリストとして「水上の音楽」で非常に見事な演奏を披露しています(しかし4番がソロを吹くなんて、当時本当に層が厚かったのでしょうね!)しかし、ソシエテのもう一人の重鎮・トウルニエや晩年のソシエテにしばしば登場していたベルジェス、あるいはクルシェといったオペラ座の名手達が参加しなかった、という事実についてはもう少し調べてみる必要がありそうです。
アブラムはパヴァーヌなどで絶品の演奏を披露」しましたが、おそらくはミュンシュの急死とともに故郷ストラスブールの帰ったようです(ロンバール指揮ストラスブールフイルで再び素晴らしいパヴァーヌを披露/彼の流れは後任のデルヴィーニュに受けつがれている。デルヴィーニュは60−70代のパイヤールなどで、バルボトウ、ベルジェス、クルシェ、デュバルなどと共にしばしば登場、主に下吹きとして輝かしいピストン・サウンドを披露)
多分ミュンシュと親しかったであろうショルティの時代にヴィヴラートが禁止になりました。バルボトウはアブラムの後任として70よりソロに就任します。が、アルコールなどの影響もあり当時46歳の彼は若干下り気味でした。実演ではソロに昇格したもう一人のガルサン・マローの方が目立った活躍をしました。そしてバルボは前年よりコンセルヴァトアールの教授になっていたせいもあり、実演よりはフィクサーとしての役目をより多く果たした、と言えます。
この時代に、たとえば「サン・サーンスの時代に帰ろう」的な考え方がでました。曰く、明るい音、細管の純粋な響きというフランスの特質を生かしつつもデュヴェミ、テーヴェの時代(およそ1930−67)のヴィヴラートは行き過ぎだ、という考えで、74年のテーヴェのオペラ座引退が見えている以上(若い音楽院の奏者たちは突然74年のヴァカンス中に楽器をロータリーに持ち替えた)、場合によってはピストンを使用しながらも、ベースはロータリーを使用しつつ、なんとかフランスの特質を残したい、と考える、いわばポスト・フレンチエコールの様な考えが台頭しました。彼らは決してテーヴェとは断絶しないものの距離を保ち、当時は論争も多かったと聞きます。主なこの時代の奏者として、(経歴は当時)
Jacques
Adnet(47-)アドネ オペラ座ソロ
Andre Gantiez(38-)ガンティエ 国立管ソロ 親テーヴェ!
伝統擁護最後の大物
Michel Cantin カンタン 国立管ソロ(おそらくフルニエの後任として)
Michel Garcin
Marrou(44-) マロー パリ管ソロ
Paul Minck(44-) ラムルーソロ 転じて 国立放送フィルソロ
Daniel
Bourgue(38-) ブルグ オペラ座ソロ
Michei Molinaro モリナロ リヨンソロ
Hirochovitz イロショヴィツ
ボルドーアキテーヌソロ
Francis Orval(43?-) オルヴァル リュクサンブール放送ソロ
Daniel Catalanotti(50-)
カタラノッティ
パリ室内管ソロ
などがいます。彼らの多くは現在フランスホルン協会の役員です。また年齢の問題でいわゆるテーヴェ世代の奏者たちは80年代前半くらいにほぼ引退しました。
これらの奏者たちの活動に少し遅れてブルームのパリ時代が始まりました。日本では見えない事ですが、昨日紹介したカザレをはじめとしたブルームの精神的弟子達「ヌーヴェルエコール」は明らかに上記の(私が仮に「ポストフレンチエコール」と名づけた)グループとは一線を画しています。
この「すみわけ」は割と明快でパリ管と放送管が「ヌーヴェル」国立が「ポスト」の牙城となっています。またパリの教授がアドネとカザレで、それぞれのクラスの生徒は、やはり緊張(?)関係にあります。(95年にある生徒がクラスを変更して、ちょっと問題になった)もう一つの最高音楽院リヨンでは教授がフルニエ−マローーモリナロという事で、アドネクラスに近い立場です。最近ここからVerty,Lentezなど美音の若手が輩出しています。
また、この二つの中間的立場として、ロータリー時代のバルボトウチックな奏者が数人いましす。音楽院の弟子達でやたらメロウです。Delplanque,Doreなど。
すみません、また長くなりました!
71.大山様へ
投稿者:孫弟子 - 2001年 05月 04日 05時 50分 50秒
丁寧にお教えいただきまして恐縮しております。
皆様と違って「ブルーム氏のその後」という立場で物事を考えていることをお許しください。 80年にODPが来日した折のプログラムにホルンがミロン・ブローと書かれて有りましたので、特になにも意識せずに聴いておったのですが、終演後、これがマイロン・ブルームであったことに気づき、ならば聴き様もあったのにと悔しい思いをしました。彼がどんな形であろうと、垂範になっていたのであれば、それはそれで嬉しいことです。
それと、ODPの楽器変更の件ですが、ヘッケル(ファゴット)はカラヤン時代でしたが、ピストン式ホルンの廃止と横ラッパ採用はバレンボイム時代だったというわけですね。
大山様のこの文章も私のページのどこかに保存させてくださいね。よろしくお願いします。
それから、私、LP時代からバルボトゥ氏のモーツァルトの協奏曲を愛聴しております。この演奏は当然ピストン式によるものでしょうから、彼は部下達の雇用継続のため自ら苦渋の決断をしたということですね。複雑な事情がとてもよくわかりました。
70.フランス、イギリス、ドイツ
投稿者:ヒデ - 2001年 05月 04日 00時 33分 56秒
はじめまして。SonoreさんのHPからたどりつきました。
夢中人さんのレジナルド・ケルとレオン・グーセンス、それに
フルトヴェングラーのお話を興味深く読みました。
レオン・グーセンスは晩年、交通事故に遭って前歯を折り
口の筋力も相当落ちたと聞いています。
その復帰後の演奏というのをラジオで聴いた事があるのですが
とても素晴らしかったのを覚えています。
レジナルド・ケルは、たしかブッシュ弦楽四重奏団との
ブラームスの五重奏の録音がありますよね?
その美しいヴィブラートにビックリしたのを覚えています。
だいたい世間では、管楽器の中でもクラリネットとホルンは
ヴィブラートを付けない物だと思われていますからね。
その理由というのも、なんとなく分かるのですが・・・
そのケルをドイツ人のフルトヴェングラーが認めたというのは、
やっぱり「天才は天才を知る」ということなのかもしれません。
69.マイロン・ブルームについて
投稿者:大山幸彦 - 2001年 05月 03日 20時 46分 40秒
孫弟子様。実は私は非常にアバウトでありまして、皆さんのように文献を調べたりはあまりしていません。直接私が耳にした話が中心になっているので、時々私や情報元の記憶違いなどで、細かな部分が違ったりすることがあります。そんな時にはカズ頼りです。ですからおっしゃるとうりブルームの在籍は77からかも知れません。レスありがとうございます。私の知っているこの件の情報を書きます。
情報元はGeorge
Barboteuバルボトウ氏です。1991に京都のマスタークラスに参加した際に伺った話しです:
1975からパリ管指揮者となったバレンボイムはホルンセクションに対してピストン式を使用しない様強く要請した。
当時の主席バルボトウは(この掲示板でたくみ氏がいっていた通り)仲間の雇用を守らなくてはならず、ロータリー式への全面切り替えを決断した。この事に関しての権利も責任も自分にある、と彼は述べている。
バレンボイムはまた、自分の理想とする音の規範として、マイロン・ブルームを招聘した。わが従兄弟工藤重典の話しによると、当初彼のスタイルは当時のパリには違和感もあったらしいが多大の影響を与えたとのこと。
そしてバルボトウ自身も自分のあかる過ぎる音を修正するため、コーンを使用する事になった。。。
私がしっているのはこの位です。私見ですが、ブルームのスタイルはその後パリ管の首席になったAndre
Cazaret(1953-)カザレにしっかり引き継がれていると思います。カザレはバルボトウの弟子で、バルボトウはカザレのアメリカンスタイル(カザレ自身は親ドイツ主義と発言する事はあるが)が好みではなかったのですが、実力を認め(前にも書きましたが、バルボトウはある時代以降ブルーム同様、弟子のカザレにも大きな影響を受けていると思います。)フレンチスタイルが大嫌いだったフランス人・ブーレーズのアンテルコンテンポランのソロに推薦します。
そこで注目を集め、パリ管のソロになったカザレはジュスタッフレなどと交流しながら[ヌーヴェル・フレンチエコール]と称されるスタイルのリーダーとなっていったと推察します。
現在、このスタイルはフランスの大きな流れになっております。主な賛同者としては、
Jean
Jacques Justafre ジュスタッフレ フランス国立放送管ソロ
Herve Julin ジュラン
フランス国立放送管ソロ
といったメジャー奏者のほか、ヴィニ、シレール、ダルマッソ(以上パリ管)ブレア、シャモなどがいます。
ただし、最近は明らかに流れが変化してきます。以上の奏者たちはフランスホルン協会からは距離を置いていますが、一方にはフランスの伝統も尊重はある程度しよう、という流れもあります。多くはフランスホルン協会の重鎮です。詳細はここでは省略しますが、この協会の名誉会長には、バルボトウとともにテーヴェが就任しています。また、日本からは見えにくい事ですが、現在のフランスホルン界の実力者としてJacques
Adnetアドネ(1947-)は外せません。
話しが大きく逸脱したので、とりあえず、ここまで。
68.お初です
投稿者:Sonore - 2001年 05月 03日 12時 25分 19秒
ホームページ:https://marcel-moyse.amebaownd.com/
Sonore@モイーズ研究室室長です。
>大山さん
et
KAZUさん
貴重な情報を掲示板でご教授いただき、ありがとうございます。
パリ音楽院好きには、居心地の良い心休まる、かつアドレナリンがどっと
わくサイトですね。お気に入りにさっそく加えさせていただきました。
時々、おじゃましたいと思います。
どうぞ、よろしくお願いいたします。
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