Y 忘れざるルシアン・テーヴェ Z
掲示板(17-27)


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掲示板 (1-27) は夢中人の不手際で消失してしまいましたが、そのうち (17-27) は「クリーヴランド管弦楽団とセルが好きだ」の孫弟子さんのご好意により復活できました。 本当にありがとうございました。


27.テーヴェ氏の奏法

投稿者:大山幸彦 - 2001年 03月 20日 21時 53分 47秒

今日は、テーヴェ先生の奏法について、教えられた事と時折示してくれた模範から、簡単に紹介してみます:

1.右手
「dbrain」でも過去話題になったことがあるようですが、テーヴェ先生は右手の影響で音が変質しないように、と強く言っていました。これは往年のフレンチ・スタイルに共通した傾向です。ベルに軽く添えられる位にセットする様いわれました。
但し、通常のロータリーには当てはまるかはわかりません。しかし私の使っている細ボアの楽器にはぴったりの教えです。

2.ブレス
意外かもしれませんが、先生は実にこまめに息をとっていました。苦しい状態で吹くよりも、常に楽な状態で演奏することが大切、とおっしゃっていました。また「息は唇を震わせるためのものだから、唇が震えさえすれば別に息なんて取らなくてもいい(振動のための息継ぎであり、息継ぎ自体が目的ではない)」とも。

往年のフランスでは、あまり長くフレーズを取るよりも、こまめに息継ぎをしながら上手にフレーズに切れ目を入れて音楽に色彩や変化を持たせるのを好む傾向がありましたが、そうした趣味の問題もあると思います。

ですから、いわゆる呼吸理論的なことをうるさく言われる、ということはまったくありませんでした。

また、息はマウスピースの横から取るのではなく、下唇を下に「外して」取っていました。この方が楽にとれるということで、私もそうしています。

そして息はすばやく取りすぎると音楽に不自然さを増すので、可能なかぎりゆっくり、そして取った後は直ぐに吐き出さずに、いったんストップしセットしてから出す、とおっしゃいました。

現代の呼吸理論からするとちょっと異端かも知れませんが、私は実際とても旨くいっているのでそうしてます。

3.デタッシェ(発音)
まずレガート重視です。日本人は特に破裂するようなきついアタックをしがちなので注意! といわれました。(私は幸か不幸か、日本では正式な教育を受けていなかったのであまり矯正されませんでしたが)

レガートからマルカートを経てスタカートをさらうこと。こうすることによって必要以上に「舌付き」しすぎる事を防止できるといっていました。またデュボアのコンチェルトのように素早いフレーズが多い曲では、舌付きしすぎると吹けない、とも。

また、スタカートの上にスラーがついている楽譜をフランスものでよく見掛けますが、あれは音を切らず、流れを繋げた余韻の中で軽く発音していくというもので、ずいぶん練習させられました。

更にはスラーで繋いで吹いている中で、音の変わり目で「内側で軽く発音する」というパターンもあります。(ヴィラネルなどで使う)

またスタカートやマルカートでも、極く軽い余韻をつける場合もあります(フランセの一楽章など)

というように、半発音みたいな段階がいくつかあります。これは先生独自というよりは、フランスの管の特徴だと思います。(確かクラの浜中先生が、これに似たような事を7つのデタッシェという形に分類してどこかで紹介しておられた、)というのも、これはフランス語の発音と密接に関連しており、もしかして、我々が(フランス語同様)きちんと発音の質の違いをききとれない事が、フランス、特に先生の音をきちんと把握することの妨げになっているのでは、とも思います。

いずれにしても「切る、繋ぐ」のみみたいな単純なものではありません。

面白いのは先生の舌は発音の時、唇の間にあり、それを「抜く」ような感じで発音していました。ですから先生は多分レガートやアクセントの調整を発音の「強度」ではなく舌の「スピード」でしていたと思います。

4.ヴィヴラート
ヴィヴラートは音のベース、普通の息使いの中でかけるものであって、発せられた音に恣意的にくっつけるものではありません。ですから「どこでかけるか」という問の答えはありません。

逆にいうと「表にでないヴィヴラート」というのは有り得ます。これもたくさんの段階がありますが、「かける・かけない」という二項対立でもない、ということでした。

5.アパチュア
先生いわく「可能な限り広く」。芳醇な音の源です。

6.アンブシュアの設定
上下が3:1あるいは4:1位で、下唇はマウスピースから1/3はでていました。また楽器に対する角度は垂直です。場合によっては少し上むき。

また唇の筋肉が非常に強く、マウスピースの周りに3重の取り巻きがありました。まず人中と下唇の。次に口唇筋の。更には頬と顎の。プレスは強かったです。しかしこうした筋肉の力強さによって歯にかかる圧は高くはなかったです。

また音の跳躍の歳はこれらの筋肉が自由闊達に動いて躍動感あふれるものにしていました。あの豊かで柔軟かつ力強い筋肉があのリッチな音にかなり寄与していたのは間違いありません。

7.ソルフェージュの重視
先生はよく「音を外すのは音がきちんと取れていないためだ」とおっしゃっていました。

かつてのフランスが非常に高度なソルフェージュ教育をしていたには、よく知られることです。先生の教育もまさにそこをベースにしており、音をまず正確に頭で取り、その頭でとった音に自動的に反応する様いわれました。音は頭で把握するものであり、決して唇で憶えるものではない、とも。

それゆえ、実用的価値に加えて、初見、移調、読譜が、素早く音楽を把握するための訓練として重要になってきます。

私はテーヴェ先生のスタイルを学びたい場合、ガロン、ダンドロ、プチ、ダマース、などのフランス式ソルフェージュを学ばれることをお勧めします。格段にフランスものの把握が早く正確になります。


最後に、できたら調の読みをen‐DO、いわゆる「Cのドレミ読み」できるようにした方がいいと思います。

例:パヴァーヌは sol−la−fa/diese−mi...というように。特に上昇を使っていると(実はベースがC管になりので)この方が合理的です。先生は他の楽器と理解を一致させ、音の性格を把握するためにも(もし指の問題がないなら)その方がいい、といっていました。

余談ですが、96年アドネ教授に習った時、テーヴェの弟子である旨伝えるとすぐに読みをen‐DOにしました。彼もまたテーヴェ先生のお弟子さんです。

ではまた! 

26.ヴィラネル

投稿者:大山幸彦 - 2001年 03月 16日 22時 28分 52秒

この曲は、どの往年のフランス人に聞いても、ゆったりした部分は「小船に揺られている様に」といいます。民族性なのでしょうか。

そういえば、昔レッスンの時にテーヴェに朱をいれてもらった楽譜があります。どんな注意点があったか、今度紹介してみたいと思います。

全く予断ですが、夢中人様、神戸の萩原珈琲はご存知ないでしょうか?古瀬戸はそこから豆を入れていました。あとフロインドリーブのケーキも!

25.二人のヴィラネル

投稿者:夢中人 - 2001年 03月 16日 22時 23分 50秒

大山さんといい、KAZUさんといい一般的には知り得ないことを投稿いただき、あらためまして本当にありがとうございます。往時の御茶ノ水、古瀬戸珈琲店でのホルン談義、目に見えるようです。

ルシアン・テーヴェのリサイタル盤をよく聴きます。やはりブレインの録音があるものに惹かれます。最初のヴィラネルは「ふし」をまるで宙に弧(アーチ)を描くように吹いていて、とても立派です。

デニス・ブレインのものは、スタジオ録音(1952年4月19日)とエディンバラ音楽祭(1957年8月24日)でのライヴ録音の2種類がありますが、BBC盤が出てからはライヴ演奏の方をよく聴きます。

デニスはアウフタクトの音をブゥと押して、あたかも歌うように吹きます。なかでも伴奏のウィルフリッド・パリィがジプシーのように熱っぽく弾くあたりと、おしまいの超速ダブルタンギングが圧巻で、最後の最高音が少々外れても、いつも拍手をしたくなります。

いずれも強烈なアイデンティティーを持った二人の天才が鍛錬に鍛錬を重ねた「十八番」という感じで心打たれます。

24.代理人制度について

投稿者:大山幸彦 - 2001年 03月 16日 21時 22分 45秒

投稿アドレス:210.172.95.250

夢中人さま。代理人制度は多分1969のパリ管設立までは残っていたと思います。またソシエテのレコードでも、「あれ?このプレイヤーはここの団員じゃないだろう?」という人が吹いていたりします。

また、「実業」では、音楽に全然関係のないのもありまして、聞く所では、オペラの休憩中に田舎のハムを売る奏者がいたとか。

また練習の少ないのも凄かったらしく、テーヴェはある日、初見で本番に臨んだところ、やたら自分が目立つ曲だな、と思って吹いていたその曲がフィデリオだったそうです。ただ、彼らの初見能力も凄く、初見エチュードを移調でやらされたのを懐かしく思い出します。(その能力は音楽の基礎訓練にとてもいいと思います。)

たしかカズはも松本氏の大ファンなので、また何か紹介してね! 大山

23.代理人制度

投稿者:夢中人 - 2001年 03月 14日 22時 57分 30秒

レコード芸術1964年5月号、松本太郎さんの『パリオーケストラ界の現状』に「代理人制度」についての記述があります。

…「実業」をするためには交響楽団の楽員として精勤でいられない場合が往々生じる。実業そのものが楽団の演奏会の時間とかち合ったり、実業の打ち合わせや稽古の時間が楽団の練習時間と重なることである。そういう時、楽員は楽団の方へは「代理人」を向ける。

パリの楽団の稽古は新曲の場合を除いて2回で、それで充分とされているが、客演指揮者などはせっかく2回の練習で曲をまとめたのに、いざ本番となるとそれまで代理を送っていた本当の楽員が現れて、がっかりさせられることがよくあるという…

スティーヴン・ペティットはデニス・ブレイン伝でこの「代理人制度」を「演奏家たちは自分の演奏できない臨時のリハーサルや本番をカヴァーするために代理人を雇い、彼らには実際より少ない報酬を払って差額を着服する」ものと説明しています。

歴史上の結果として、この制度は楽員の固定給や自主運営によるオーケストラ(1904年のロンドン交響楽団)を生み出すことになりますが、隣国のパリで1964年当時まで制度として生き長らえたことに少々驚きを感じました。

22.何故フレンチエコールはなくなったのか その2 補足

投稿者:大山幸彦 - 2001年 03月 14日 22時 37分 16秒

いずれにしても「その1」等で述べたとうり、こうしたバルボトウの選択は、芸術的意志ではなく、アンチ・テーヴェ的運動(それは時代と呼応している)に迎合してしまった結果であり、「どうしよう」という事無しに「まず変えよう」という方向にいってしまいました。

そしてアンチ・テーヴェ運動の底流に流れているのは「彼がいる限りスターになれない」的な発想、或いはポジション兼務禁止、更には1つのポシションの複数化という雇用の拡大を意図し、自分の出番を増やそうとするベクトルです。

ところで、バルボトウのCNSMP教授就任は、当座のスタイルを変更したことより、長期的にみればもっと根本的変化をもたらしましたが、それはまた今度。

21.何故フレンチエコールはなくなったのか その2(20の続き)

投稿者:大山幸彦 - 2001年 03月 14日 22時 09分 35秒

すみません 途中で入力環境がちょっとおかしかったので、一度区切って続けます。

テーヴェはそんな訳でドイツのマエストロではクナとは大の仲良しだったらしいです:

「マエストロ、ヴィヴラートかけていいですか?」
「どんどん!!」

話は戻りまして、バルボトウはテーヴェみたいに強烈な意志の持ち主ではなかったので、ちょっと周りにながされたかな?という感じです。(彼もそれで得をしましたし)ホルン界の「世論」に乗せられて、担がれて変えちゃったんですね。

そうはいっても彼はCMSNP教授でパリ管ですから、ご自身がいっていたとうり「フランスの音を変えた功罪共々自分にある」というのはそのとうりなんですが。

老中に流されてしまった将軍、といったところでしょうか? あるいは(きっとカズはそう考えていると思いますが)そういいながら、彼自身がやはりナヴィゲーターだったのか? これはも少し調べる必要あり、です。

20.古瀬戸珈琲店の再来か?

投稿者:大山幸彦 - 2001年 03月 14日 21時 40分 34秒

なんだか、私,カズ、安井、そしてそのうち出てくるであろう坪井、(その他にも恐るべきメンバーがいますが)まるで1986−92年ごろお茶の水の「古瀬戸珈琲店」にたむろしてたメンバーが多い気が。。。(夢中人さん、知りませんでしょうか?)

安井の質問に答えましょう! 半分正解です。
1969年、次の教授選の際、混乱する時代にあってもテーヴェ及びフルニエはたとえ若い世代と意見が合わなくとも毅然としていましたが、バルボトウはこういったそうです、「新しいフランスのホルンを作りましょう!」 これが大きな支持を集めたそうです。ただし、聴くところによると、この段階ではその「新しいホルン」が何なのか明確なヴィションはなかったとか。ただ、彼が教授に就任した時、意図的にスタイルを変えようとはしたでしょう。

またドウベミ・クラスのアシスタントをしていたのもプラスに働いたようです。

また、アドネ、ブルグの両名が当時テーヴェのスタイルに公然と反対していましたが、テーヴェいわく、本当に当時の反抗の首謀者達は「とっくに楽器を吹かなくなって」いるそうなので、それが誰だか私にもわかりません。
後にアドネ、ブルグは後年テーヴェ寄りに修正しているので首謀者ではないでしょう。

バルボトウはこうした時代の流れを敏感に感じ取って軌道修正をし、うまく波にのったのでしょうね。彼は優秀な奏者でしたがテーヴェのようにスーパー・ソロイストではなく、有能な1−3番だったと思います。たとえば彼はミュンシュに「フランス風に吹かないでくれ」と言われてがっくり来てしまうのですが、テーヴェはショルティに同じ様のことをいわれた時、「(ペナブルなど過去の奏者をひとしきりいった後で)...以来そういう事をいったものはいない!」と一蹴したということです。(フランスの往年のオケが合わない指揮者の下ではとたんに生気がなくなるという話は有名ですが、彼らにとっては指揮者は独裁者でもなんでもない訳で、理不尽なこといわれると「なんで従わなきゃなんないの?」という気持ちだったらしい。テーヴェは「指揮者はカラヤン以降皆独裁者になった」といっていましたが。1人の凝り固まった価値観に従おうなんて発想は皆無。自分達のやる気とソノリテを引き出してくれるマエストロが大好きだったのです。

19.感謝感謝!

投稿者:たくみ - 2001年 03月 13日 23時 50分 30秒

たくみ@アンサンブルの飲み会で少々酩酊気味です。
夢中人殿、KAZU殿ありがとうございます。
早速インターネットで注文します。(ちなみにフクロヤを利用)
ところで、やはりフレンチスタイルの消滅はバルボトゥの反乱でしょうか?
本人も「弟子の食いっぷちを確保するためにはピストンとスタイルを捨てる
しかなかったのだ」と言っていました。
個人的には短期師匠のバルボトゥは音色を含め大好きなのですが、
KAZUさん曰く「売国的行為」の筆頭にあげられるのでしょうか?
と、酔いに任せて書いてしまいました。

18.すいません、間違えました

投稿者:KAZU@こるにすと - 2001年 03月 13日 23時 45分 07秒

さきほど8つ目のパヴァーヌと書きましたが、9つ目でしたね。失礼しました(東京ライブを除けば8つ目ということで…見苦しい言い訳)。ところで私の先ほどの記載のOrchestre de la Societe des Concerts Symphonique de ParisはこのホームページのディスコグラフィーのNouvelle Association Symphoniqueのことです。


17.8つ目のパヴァーヌついに発見!?

投稿者:KAZU@こるにすと - 2001年 03月 13日 23時 18分 42秒

こんばんは。KAZUです。いやぁ、のっけからかましてくれましたね大山君。私の期待をはるかに超える長文ありがとうございます。ま、要約すればフレンチスタイルは、とてつもなく吹けるジジイたちを何とか追い出してポストを得ようと、外国人指揮者たちと結託して売国的行為にでた連中につぶされた、というところでしょうか(私って大山より過激?)。

たくみさんのご質問ですが、ドヴェミーのパヴァーヌ、ヴィラネルは第15集、ヴェスコーヴォは第17集に収められています。あとドヴェミーが参加しているイベールの3つの小品は第14集です。なお、今回のCDには入っていませんが、ヴェスコーヴォはモーツァルトの3番も50年代に録音しています(パイヤール指揮ジャン・マリー・ルクレール器楽合奏団)。大変すばらしい演奏です。1楽章のカデンツはとんでもないことをやっています。

あと日曜日にレコード・CDの整理をしていて、いままでディスコグラフィーに入っていなかった録音を発見しました。ルネ・レイボヴィッツ指揮Orchestre Radio-symphonique de Parisの録音(米VOX 1953)です(テーヴェのクレジットが入っています)。私は最初この演奏は、同指揮者のOrchestre de la Societe des Concerts Symphonique de Parisの演奏と同一(古い録音にはよくあるクレジットの間違い)だと思っていました。ところがこのコンセール・サンフォニークの演奏は私の持っているCDでステレオ録音だということが判明しました(RCA 録音は英DECCA 1960)。ちなみに私のCDにはパヴァーヌは入っていなかったのですが、ラヴェルのボレロ、ドビュッシーの小組曲が入っていて、トップはテーヴェでした(音ですぐわかる)。ですからこれらの曲と同時期にディスコグラフィーのパヴァーヌも録音されていたことはほぼ間違いありません。一方、ラジオ・サンフォニークの録音はモノラルなので、この二つの録音は別のものだということが判明したわけです。以上、世紀の大発見(大げさだっちゅーの!)に少々興奮気味のKAZUでした。


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