Y 忘れざるルシアン・テーヴェ Z
掲示板(1-16)


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夢中人の不手際で消失してしまった投稿 (1-27) のうち (2-12) をKAZUさんが (17-27) を孫弟子さんが提供して下さいました。本当に感激しました。有難うございました。


13.-16.(消失)


12.その1 補足

投稿者:大山幸彦 - 2001年 03月 11日 20時 52分 47秒

現在のフランスには往年とは比較にならぬほど多くの奏者と教授、そして雇用機会がありますが、果たしてかつてのように美しい音の印象を時を越えて我々に残せるでしょうか? 私はカズのクエスチョンに部分的ではありますが、こう答えたいと思います:

芸術的理由でテーヴェ、ヴェスコーヴォなどのスタイルがなくなったのではない。

少し悲しいことだと思います。

11.何故フレンチ・エコールはなくなったか その1

投稿者:大山幸彦 - 2001年 03月 11日 20時 14分 37秒

カズの質問に答える形で少しずつ「何故フレンチ・エコールはなくなったのか」ということを私なりに考えていきたいと思います。

概観:
1.−1914
1968年前後の当時のフランスはいわゆるジェネレーション・ギャップの問題が頂点に達していました。68年5月のいわゆる「5月革命」を中心として社会的にも大きな問題が続発しました。音楽の世界に限っていいますと、戦前の爛熟期を知る世代と知らない世代間には大きな隔たりがありました。

あるフランス人から1914−42頃のいわゆる大戦間は毎日が同じように繰り替えされた閉じた時間だったと聞いたことがあります。特に戦勝国だったというのが重要です。フランスの音楽の歴史は自国の強い文化に対する肯定と否定の繰り返しです。そして否定期にはかならずドイツ文化が軸として登場します。(いわゆるゲルマニスム)です。

ものすごくアバウトにいいますと、王朝期がラモー、クープランに代表される自国文化尊重とすると、革命後は勿論そうした伝統の否定にはじまります。したがってモーツアルト、リスト、ショパンなど主として外国人特にゲルマン的音楽家が活躍します。19世紀後半の普仏戦争で敗れた後、少し状況は複雑になります。ドイツに敗れたもののかつての自国の価値観に戻るにも抵抗がある。そんな状況のなか、新しいフランス音楽を作ろう(敵国ドイツから離れて)という試みがなされましたが、その動きもそんな背景の中、大きく分けて二つの流れを生んだと思います。まずドイツの音楽をフランス風に作り変えようというフランキストの流れ。彼らは特にワグナーを参照しました。もう一つがワグナーを嫌悪し、自国の古典音楽と同じく感情より知的構成を重視したサン・サーンスの流れ。(この他にもマスネの流れなどありましたが。)

2.1914−1942頃
14年の戦勝によって後者の流れに大きくフォローの風が吹きます。特にラヴェルの愛国的活動は目をひきます。サン・サーンスと同じく構成と洗練を尊び、王朝期の価値観を取り込み、本来の伝統である室内楽的色彩をオケにとりこみます。その軽やかで透明なスタイルはいみじくもコクトーが言った「ソース抜きの音楽」とイッチします。そういえばコクトーはこんな風にも言いました:

くたばれワーグナー(気にさわる人がいたらごめんなさい!)

この刺激的なセリフが当時のオケの象徴です。ロマン派よりも新古典的フランス音楽が重視された結果、オケのスタイルはどんどん色彩的に、そして軽くなっていきます。フランス独特のソルフェージュ教育は高度な音楽をどんどん生み出します。
カズが書いたミュールやドウベミのスタイルはこうした時代に生まれたのです。そして戦勝のはなやいだ気分はその「閉じた時間」においてどんどん発展していきます。ソシエテ・デ・コンセール(音楽院管)はメサジェとゴベールの、ラムルーはシュヴィヤールとヴォルフの、コロンヌはピエルネとパレーの、パドルーはバトン等の棒によって美しい音楽を毎週奏でました。

ホルンもペナブル、ヴィルエモ、アルフォンス、ブロ、ルモン、ランベールなどを受けて、ドウベミ、クルティナ、若きテーヴェなど自由闊達の吹くソリスト達が登場します。かれらは夢中人さんが指摘した松本氏の記述どうり、フランス独自のいわばスターシステムにのってあちこちで吹きます。そうした文化は30年代に絶頂に達します。

3.1944−1967
戦後もまず輝かしいベル・エポックの再興としてたくさんの音楽家、そしてホルン奏者が登場します。ドウベミ、テーヴェにくわえてフルニエ、バルボトウ、そしてヴェスコーヴォなど。そして「スターシステム」はあいかわらず健在です。テーヴェはソシエテとオペラの(時々ラジオフィルも)、ドウベミはオペラ・コミークとラムルーの、フルニエはortfの、ヴェスコーヴォはギャルドとコロンヌのそれぞれソロを担当しました。またバルボトウ、ベルジェス、クルシェ、デルヴァルドなどのオペラやコミークの奏者達もあちこちで吹きまくりです。

パリではフル回転する超絶ホルン奏者達によって常に高いレヴェルの音楽が提供されましたし、フランス伝統のマエストロも健在ですからレパートリーの上でもそんな問題は派生していませんでした。戦後になってドイツ古典派、ワグナー、シュトラウスは演奏機会は増えましたがベースは変わっていません。

しかし徐々に「戦後」が終わる中、スターの影にかくれてなかなか出番が少ないホルン奏者がそれを覆すチャンスを狙っていても不思議ではありません。

4.1967−9
1967年、ソシエテ解散、69年ドウベミ引退、そして68年の「革命」
大きな結節点です。マルローの発案によるパリ管の設立に際して新監督ミュンシュ種のほかに実際に絵を描いた音楽家がいますが、これにうまく働きかけてスターシステムを排除し、彼らを引退させ、自分たちが立場をえて、なおかつメンバー固定制によって安定した雇用を確保しようとした奏者達がいたのはまちがいありません。(主にホルン以外ですが。)

また、主にメンバー入れ替えの口実として求められているスタイルが変化している、と述べて、実際にそうしてしまって音楽界の世論の支持を得ようとするのもありえます。ここで登場するのが、例の「ゲルマニスム」です。もはやフランス音楽主導の時代ではない、明るすぎる音はおかしい、ドイツ(あるいはアメリカ、アメリカ主義は特に1975以降)をみてみろ、もっと広いレパートリーを融通の利くスタイルで吹いている、云々。私はドイツ音楽は嫌いではありませんが、フランスのゲルマニスムには賛成できません。だってたいていのドイツ音楽だってソシエテやオペラは素晴らしく演奏していましたから。

逸話 戦前ニュルンベルグにておこなったソシエテの演奏会では19分拍手喝采だった

結局テーヴェは新生パリ管ソリストのオファーを受けたものの、現実的選択としてオペラを選び、1941以来続いたソシエテとの兼務は終わりました。(このときもメンバー入れ替えについてはいつかご紹介します)

オペラ、そして1974にはortfでも同じような変化があり、多くのフランス全盛期を支えた奏者達は少し早めの第一線引退をしたようです。

そうしたなか、テーヴェ、フルニエ、バルボトウによる音楽院の後任教授選びがおこなわれましたが、そういったご時世のなか、伝統主義者テーヴェは残念ながら選出されませんでした。(このときの各人の動きについてもいつかご紹介します。ただし非常にデリケートな問題です)

10.(欠番)


9.ホルンの邪道

投稿者:夢中人 - 2001年 03月 11日 11時 10分 28秒

カズさんのヴェスコーヴォのお話、大変興味深く読みました。ありがとうございます、心の中で25年以上くすぶり続けていた疑問が初めて解けました。そういえばパイヤール盤のジャケットにあるヴェスコーヴォの写真はロータリー・バルヴ式ホルンだったような記憶があります。

私は現役プレーヤーではありませんし、もともと素人でちゃんとした先生に教わったこともないのですが、フレンチスタイルのホルンは邪道なのでしょうか。実は私も高校時代、ヴェスコーヴォに影響されてヴィブラートをかけた時期がありまして、部長に「お前の音は歌謡曲みたいやな(止めとけ)」と言われ気まずい思いをした経験があります。

確かに日本のクラシック音楽界は昔からドイツ・オーストリア偏重で、それにつれ管楽器奏者も「俺はデットモルトに行った」とか「ドイツで勉強された○○芸大の□□先生に習った」という方がほとんどで大山さんのようにルシアン・テーヴェに弟子入りした方は少ないのでは、と思います。

だけど物事の本質は王道に従っていれば見えてくるのでしょうか。ちょっと変わっているけれども、それを含めて考えないと全体は判らないこともあるのではないかと思っています。素人の私がこんな事を言うまでもなく、本当に自分のスタイルを持った人ならば、例え流派が違っていても少し音を聴けば「ムムッ、出来るなッ」とお互い認めあえるのではと思います。

テーヴェの演奏するヴィラネルやプーランクのエレジーを聴きながら、そんなことを考えました。

8.(欠番)


7.所詮若輩なもので…

投稿者:KAZU@こるにすと - 2001年 03月 10日 21時 12分 51秒

夢中人さん、ご教授ありがとうございます。私や大山がいくら騒いでみたところで、所詮フランス楽壇の黄金時代である1950〜60年代をリアルタイムで知っている人間ではないので、博識な年長者の発言は重みが違います。これからもご指導よろしくお願いいたします。ちなみに私はフランス楽壇にとって運命(クリュイタンスの死と音楽院管解散)の年、1967年に生まれました(大山はその前年生まれ、学年は同じです)。私が説明するまでもなく世界的に既存の価値観が覆され(パリ5月革命、中国文化大革命、日本の安保闘争etc…)、美しいものが失われるきっかけとなった年です。私たちがこうして滅びていった文化にある種の憧憬を感じるのは、決して偶然ではないような気がします。

夢中人さんご紹介の音楽評論家・松本太郎さん(本名:小西誠一さん)は、当時(というか今でも)日本には数少ないフランス音楽を正当に評価・評論されていた方で、私にとって教祖のような人です。氏の著書『フランス音楽を語る』(全音文庫)は私にとってまさにバイブルです。複数のオケや仕事を掛け持ちすることは、多かれ少なかれ他の国でもあったようですが、フランスの場合は度はずれてひどかったようですね。音楽院管の解散、パリ管の創設はこういった無秩序な状態の解消が目的だったのでしょう。しかし残念ながら音楽家の経済的な安定には効果があったかもしれませんが、代償として失われたものがあまりにも多すぎたのは皆さんご存知のとおりです。

夢中人さんご指摘のヴェスコーヴォの『変貌』は、録音状態以外にもっと大きな理由があります。彼は意図的にフレンチスタイルをやめ、インターナシャナルな奏法に変えたからです。彼は50年代にギャルド、コロンヌ管弦楽団の主席として活躍した後、60年以降海外のオケを渡り歩きます(イスラエルフィル、モントリオール響)。その時点で彼は自身の奏法がこれらのオケとなじまないことを悟り、奏法および楽器を変えたようです。これと似たような経歴をもつのがTpのピエール・ティボーで、彼もイスラエルフィル在籍時に、自身の音が明るすぎてオケになじまなかったことでC管主体の奏法を変え、B管主体のいわゆるアメリカンサウンド(ダークサウンド)に転向しました。また指揮者でもミュンシュは渡米前と渡米後でホルンの音の好みが全く変わってしまったといいます。

したがって70年代にヴェスコーボがフランスに戻ってきてからの録音は、ピストンホルンではなくロータリーホルンでの演奏で、奏法もノンヴィブラートです。演奏が窮屈そうに聞こえるのは、やはり本来の自分のスタイルとは違う奏法で無理をして吹いているからでしょう。ですから注意深く聞くとヴィブラートをかけたいのに無理して押さえているのがわかります。

彼らはなぜ一流のフランス人であることをやめ、三流のアメリカ(あるいはドイツ)人になろうとしたのでしょうか。外国人指揮者に要求されたからだとジョルジュ・バルボトゥは説明していますが、そんな単純な理由でウィーンと並んで古い伝統を誇っていたフレンチスタイルがつぶれるわけがありません。もっと複雑な要因が絡み合って起きた変動であることは間違いありません。その複雑な要因とは…

これ以上書くと長くなりますので(もう十分長いって!)ひとまず筆をおくことにします。あとはよろしくね、大山君(ひょっとしたらもう書き込んでるかな)。結論を人任せにする無責任なKAZUでした。

6.デル・ヴェスコーヴォのこと

投稿者:夢中人 - 2001年 03月 10日 18時 29分 54秒

大山さんやカズさんはご存知でしょうが、EMIの「ギャルド・レピュブリケーヌ吹奏楽団の芸術」にフランスの代表的ホルンの名手、ピエール・デル・ヴェスコーヴォが登場するのは「あれッ、どうして?」と思う方はいらっしゃいませんか。

私はCDを買わずして、今日判りました(と、ちょっと得意げ)。

初めてフランスからやってくるパリ音楽院管弦楽団の来日を前にしたレコード芸術1964年(昭和39年)5月号で松本太郎さんが「パリ・オーケストラの現状」と題する特集記事を書いていらっしゃいます。とても面白いので、少し引用させて頂きますと―

(パリの)各楽団は各楽員に対してサラリーを払っていない。楽員は一シーズンの終りに収支を計算して得られた利益の配当を受ける為なのである。従ってシーズンの終りまでは定期(演奏会)の仕事に対しては楽団から一文も貰わない。

その間彼らが楽団の楽員として受け取るのは放送とレコードを録音した場合に放送局とレコード会社から払われる報酬なのである。従って彼らは「実業」に頼らざるを得ない。

その実業は様々である。 オペラ、オペラコミック、オペレッタの楽員を勤めること、独奏者や室内楽の奏者として演奏会、放送、レコード録音に加わること、音楽学校の先生になったり個人的に弟子を取ったりすること等で、下位の奏者ではカフェーのアンサンブルに加わるものもいる。

名前は忘れたがパリ音楽院の管楽器の教授でソシエテの楽員とギャルド・レピュブリケーヌ軍楽隊の隊員とオペラの楽員を兼ねた人のあったことを思い出す。ギャルドの勤務時間が午前中、ソシエテの定期は夕方、オペラは9時からであるから音楽院は午後に教えれば充分やっていけるらしい。

ある時モンパルナスのカフェーで数人のアンサンブルのトップを勤める男がどこかで見たような顔なので、よくよく考えてみるとコンセール・コロンヌの第1ヴァイオリンのビリで奏いていたのだと判ったことがある。こうでもしないと食べて行けないらしい…

ところでヴェスコーヴォ/パイヤール室内管弦楽団によるモーツァルトのホルン協奏曲全曲についてなんですが、旧録音(第2番や五重奏曲)でふくよかで艶やかな音色と玉が弾むように流麗なテクニックで抜群の冴えを示していたにもかかわらず、新録音では線が細く、 どこかギクシャクとした感じです。きっとマイクロフォンの設定に問題があったのではと思っているのですが…

5.間違っちゃいました

投稿者:KAZU@こるにすと - 2001年 03月 10日 09時 36分 25秒

KAZUです。先ほどテーヴェとドヴェミーの演奏が混同されていると申し上げましたが、ドヴェミーの演奏は戦前(1930年代)でテーヴェの演奏は戦後なので、混同の可能性はありませんでした。いいかげんなことを申しまして失礼しました。

4.(欠番)


3.先を越されました!

投稿者:KAZU@こるにすと - 2001年 03月 10日 09時 19分 22秒

こんにちは、KAZUです。夢中人様、私と大山のためにわざわざこんな場所を作っていただき、ありがとうございます。早速書き込みを、と思ったら既に大山以外の方から書き込みが!一体誰がと思いきや、たくみさん(注:大山氏の高校の後輩)だったんですね(正体明かしちゃってごめんなさい)。少しホッとしました。今まで書き込みを遠慮してきた私ですが、ここなら気兼ねなくできそうです(隔離病棟といったところですね 爆)。日本のホルン界には依然としてヴィブラートをかけたホルンは邪道との考えが根強く残っているので、私たちのような人間があまりのさばると、他の方たちの不興を買う恐れがあるのですが、ここにいる限りは大丈夫そうです。

以前大山からジャン・ドヴェミーについて記述がありましたので若干の補足・訂正をしたいと思います。彼は1898年の生まれ(96年ではない?)でバランシェンヌの出身です(同郷の名奏者としてオーボエのピエール・ピエルロがいます)。またパリ音楽院の教授就任は1937年だそうです。最近EMIから「ギャルド吹奏楽団の芸術(全20巻 バラ売りあり)」が発売され、その中にドヴェミーのラヴェルのパヴァーヌやデュカのヴィラネルが入っていました。その解説には、彼はヴィブラート奏法を、SAXの名演奏家マルセル・ミュールからヴィブラートを学んだということです。もちろんフランスではヴィブラートをかける奏法は狩猟ホルンの時代からありましたが、演奏会用の楽器に使用したのは彼が初めてであり、その起源はミュールにあったというわけですね。よくフレンチスタイルのホルンを形容する際に「SAXのような音色」といわれますが、それは上記の経緯を考えれば当然のことです。

テーヴェのディスコグラフィーの中にフレイタスブランコ指揮のパヴァーヌがありましたが、ひょっとするとこのドヴェミーの演奏と混同されている可能性もありますね。

今回のギャルドCDのもうひとつの目玉は、デル・ヴェスコーヴォのモーツァルトの2番コンチェルトが入っていることです。夢中人さんも以前バルヒェットとのモーツァルトの五重奏について触れられていましたが、私もあの演奏はデニスの演奏と並びこの曲の最高の演奏だと思っています。彼は1956年にジュネーブコンクールで最高位(1位なしの2位)受賞以来、エラートに多くの演奏を残している私の大好きな奏者の一人ですが、語りだすと長くなりそうなのでまた別の機会にします(といってもこの掲示板に書くんでしょうけど 爆)。

初めての書き込みで長々と失礼いたしました。このページの今後のご発展をお祈りいたします。

2.祝!ルシアン・テーヴェHP開設

投稿者:たくみ - 2001年 03月 09日 11時 35分 39秒

ルシアンテーヴェのHPが開設されたと知り、仕事中にこっそり見ています。
最初にテーヴェ氏の演奏を聴いたのは(当時はテーヴェの名前すら知りません
でしたが)クリュウイタンス指揮のパヴァーヌの演奏でした。
あの時は感動のあまり涙した記憶があります。
このページなどで、忘れ去られたフランスのホルンが広く知られることを願っ
ています。

1.(消失)



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