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第60話「フランダース&スワン/イル・ウィンド」
 モーツァルトのホルン協奏曲第4番終楽章に声楽版「イル・ウィンド」というのがあります。パフォーマーは、1950〜60年代、大変人気を博したエンタテイナー、マイケル・フランダース(1923-1975)とドナルド・スワン(1922-1994)で、英国のある世代は、デニス・ブレインとハレ管弦楽団によるレコードのロンド楽章を聴くと必ず「フランダース&スワン」を連想するといいます。

At the Drop of Another Hat 「イル・ウィンド」は、1963年、シアター・ロイヤルで行われたショー「アット・ザ・ドロップ・オブ・アナザー・ハット」のうちの1曲で、最近フレンチ・ホルンを練習しているというマイケル・フランダースが、モーツァルトが18ヶ月ぐらいのときに作曲したホルン協奏曲変ホ長調K.約495終楽章(??)を初演したい、という口上で始まったらしい。

 ドナルド・スワンは作曲家で、1956年ホフナング音楽祭のためのハイドンの交響曲第94番(びっくりシンフォニー)の編曲でも有名です。

2004年11月13日 12時59分06秒

第59話(削除)
2004年11月11日 23時08分41秒

第58話「高校生のみなさんによるラジオ番組」
明石南高校放送部のみなさん 明石市の高校2年生、宮本美穂さんと町頭(まちがしら)志津香さんが一昨年の自主制作CD「蘇るデニス・ブレイン」に関するラジオ番組を制作中です。お二人は兵庫県立明石南高等学校の放送部員。作品を近く行われる総合文化祭放送文化部門で発表の予定とか。

 番組は、主に私や制作に関与した人々へのインタビューで構成されているようですが、デニス・ブレインの弟子でおられ元NHK交響楽団の千葉馨先生にも電話インタビューしたといいますから驚きました。

 この若い人たちが、英国の偉大な演奏家に関することとはいえ、そもそもが趣味の延長線上にあったできごとに着眼し、自ら調べ膨らませて、千葉先生のところまで辿りつかれたこと本当にすごいともありがたいとも思っています。
2004年11月07日 22時59分23秒

第57話「リヴィア・ゴランツ、インタビュー(3)/その後のオーケストラ稼業、引退」
 その後ロンドンに戻ってロイヤル・オペラ・ハウス(ROH)に入りましたが、これが人生最悪の過ちでした。指揮者のカール・ランクルが女嫌いで、まったく馬が合いませんでした。ROHのピットではオペラではなく、バレエばかり演奏させられたんですよ!一体ランクルは、何のために私に首席ホルンの仕事をくれたのでしょうね!

 それからシェイクスピアの劇を生演奏付きでロングランしているウェスト・エンド劇場に移りました。ホルンは2人で、もう相方はジミー・バーディットでした。私は2番を吹いたり、2人で交替に吹いたりしました。

 1950年、ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団(RPO)が有名な3ヶ月間の米国演奏旅行をするとき、シドニー・クールトンにBBCノーザンでの仕事を辞めて、RPOに入るように頼みました。BBCは、彼の替わりに私を1番ホルンに入れるという条件で承諾しました。

 BBCノーザンの指揮者は、チャールズ・グローヴスでハレ時代から知っていました。こうしてマンチェスターと「私が吹いた中で最高のホルン・カルテット」に戻りました。伝説のオットー・ペアシュがまだ3番、フランク・テイラーが2番(1953年、ペアシュが引退後3番)、4番のピーター・ライダーは大変なインテリで話題豊富でした。毎朝ガーディアンのクロスワードをやったりして…。

 それからサドラー・ウェルズ・オペラの音楽監督マイケル・マディーに招かれて入団しました。ロイヤル・オペラのことがあったので最初は嫌々でしたが、マディーがピットでどう吹くか教えると約束してくれました。彼のおかげでとても楽しめる仕事になりました。2番ホルンは、オーブリー・ブレインで戦争中の事故からカムバックしようと一生懸命でした。彼にしたら大零落だったかもしれませんが、腐ったところなど微塵も見せず、私はよく助けてもらいました。でも結局はみずからオーケストラを離れてゆきました。

 この頃になって歯が悪くなり始め、2番ホルンに替わりました。でも1953年には歯のトラブルでプロの演奏家を辞めざるをえなくなりました(アマチュアとしては60年代半ばまで)。それから弦楽器をひいたり、サドラーズ・ウェルズでヘンデル・オペラ・ソサエティなどセミ・プロの歌手をやりました。
 ゴランツさんは、インタビューでまだ現役のホルン・プレイヤーの如く語りました。それはまるでパブで聞くような指揮者の知られざる一面とか、ぎゅーぎゅー働かせて、ピンハネするマネージメントの話とか、特別製のマウスピースやブージー&ホークスによる試作ホルンのことなどいろいろ。なかでもFホルン「豆鉄砲」や、ホルンの円錐状の部分の筒の直径、フリーランスのことになると盛り上がりました。

 以上、一人の女性としてパイオニアの役割を果たしてきたゴランツさんの大変興味深いお話でした。今日の女性プロ奏者隆盛も、彼女のお陰とも言えるのではないでしょうか。20世紀英国のホルン奏者について類を見ないほど詳しいトニー・キャテリック、的を得た質問やゴランツさんの記憶に対するフォローなど素晴らしかったです。

2003年10月7日 パウル・カンペン
2004年11月06日 14時47分20秒

第56話「リヴィア・ゴランツ、インタビュー(2)/初の首席奏者」
 新しくなったオーケストラによる最初の演奏会がベドフォードのプリンス劇場で行われました。ともかく英国の一流オーケストラで1番ホルンを吹く最初の女性となったわけです。ホルン・セクションには、ジミー・デニスが2番、大親友になったエニッド・ロパー(これまた女性)が3番、かっての1番で高齢のレイモンド・ミートが4番、彼は大変気難し屋で、たぶんそれまで私のように面白い人生じゃなかったでしょうね。 エニッドは以前キースリー・オーケストラ・ソサエティ(現在のエアデール交響楽団) で吹いていました。

 ハレで2年間1番ホルンを吹きました。シェフィールド演奏会のために灯火管制の中、汽車で旅するのがとても楽しかった。サー・ジョンの目を見るだけで彼がやりたいことがわかりました。あるときリハーサルでチャイコフスキーの交響曲第5番の有名なホルン・ソロを吹いたときのこと。私はそれまで一度も吹いたことがありませんでした。サー・ジョンは演奏を止め、指揮棒を下ろして「素晴らしい!何も言うことはありません」

 トニー・キャテリックがゴランツさんとジミー・デニスが吹いたヴォーン・ウィリアムズの交響曲第5番のレコードをかけました。まるでデニス・ブレインのレコードのようなスタイルです。これは当時のハレによる二つしかない録音のひとつで、もうひとつの録音バックスの交響曲第3番が最近CDで発売されました(DUTTON CDLX 7111)。ヴォーン・ウィリアムズ同様マンチェスターはディーンズ・ゲイトにあるホールズワース・ホールでの録音です。

 SPレコードの場合、大抵「取り直し」がありません。一回に1面分(4分半)が録音されました。戦時中の制限のためにレコード会社は極めて物資不足。それでバックスの緩徐楽章を録音したとき、長いホルン・ソロなのに一度しかテイクがなく、エンジニアの失敗でロング・ノートの最中にピッチが下がってしまいました。でもシェラックがあまりなかったため、それっきりになりました(最近のCD化でこの低いピッチは電気的に補正)。遠くのホルン・ソロは、実際ホールの反対側で演奏され、吹き終わってから、まだ録音中のオーケストラの自席までそっと歩いて戻らなければいけませんでした。

 ところでハレは、私が軍に徴集されないように定期的にいくつかの書類に署名をしなければなりませんでした。あるときこれを忘れたため、セント・ピーターズ・スクエアの事務所で面接される破目になりました。面接官と生計について話したとき、軍のコンサート・パーティに送り込まれる話も出たんです。

 ハレのホルン・セクションでは、いろいろあってベートーヴェンの第7交響曲の録音のときにサー・ジョンと2日間口喧嘩して、結局電話で「もうお別れだね」と言われました。それからグラスゴーのスコティッシュ管弦楽団の1番ホルン、さらにホルン・セクションにビル・トンプソンのいるBBCスコティッシュに移りました。
(続く)
2004年11月03日 10時46分17秒

第55話「リヴィア・ゴランツ、インタビュー(1)/女性ホルン奏者現る」

 以下の文章は2003年10月、英国ホルン・フェスティバルにおける、王立ノーザン音楽院でのトニー・キャテリックによるリヴィア・ゴランツ Livia Gollancz さんインタビューから起こしたものです。ゴランツさんは1920年生まれ、ゴランツ出版の創業者、サー・ヴィクター・ゴランツの娘であり、1967年、社長を引き継ぎました(1990年撮影のポートレートをナショナル・ポートレート・ギャラリーのホームページで見ることができます)。

 ゴランツさんは、デニス・ブレインのモーツァルトの第4番の協奏曲のレコード(1943年録音)で伴奏したハレ管弦楽団の1番ホルン奏者。インタビュアーのトニー・キャテリックは、ロンドン・モーツァルト・プレイヤーズ2番ホルン奏者。

 原文は英国オペラ・ノース・オーケストラ(前ノーザン・フィルハーモニア)の4番ホルン奏者、パウル・カンペン氏がオペラ・ノース・ホルン・クラブのニュースレター La Trompe 2003年10月号に掲載された記事を、氏のご好意により翻訳、抜粋してここに再掲載したものです。

 幼い頃の音楽の思い出は、家にあった手巻き蓄音機を聴いたこと。まずベートーヴェンの第5交響曲第3楽章のホルンの音色に魅了されました。でも楽器を始めたのはヴァイオリンで、大きくなってからヴィオラに。王立音楽大学(RCM)に入学してアーネスト・トムリンソンと学んだのもヴィオラでしたが、副科にホルンを選びました。持っていた楽器は、16歳の誕生日に骨董屋で5ポンドで買ったベッソンのピストン式F管ホルンで、今では大変珍しいものです。

 最初のホルンの先生は、長老フランク・プロゥビンで、私には「少女らしくあれ」みたいな考えだったので、私もプロになるつもりは無かったのです。それで「ひとつの実験として」1年中F管ホルンの解放音ばかり吹くように言われました。ほかの学生はほとんど軍隊から仮退役でしたが、中にはデニス・メイソン(のちに私のあとを継いでハレ管首席)、コリン・ヒンチクリフ(のちロイヤル・オペラハウス首席)、ノーマン・デル・マー(いつも指揮の方に興味が行っていました)、ニール・サンダース、レナード・フレミング(のちLPOの3番)がいました。

 最初にデニス・ブレインと会ったのは、1938年、アレキサンドラ・パレスで行われた王立音楽大学と王立音楽アカデミーのオーケストラの合同演奏会でした。指揮は、サー・ヘンリー・ウッドで演奏会は、アレキサンドラ・パレスのオルガンが調律されたのを機会に行われました。

 RCM4年のとき奨学金を貰いましたが、その時期休学してグラスゴーのスコティッシュ管弦楽団(現在のロイヤル・スコティッシュ・ナショナル管弦楽団)で2番ホルンを吹きました。当時そこの首席ホルンは、レン・ヒッグス。ただしフル・タイムの仕事ではなく、他のRCMの学生と一緒に週3、4日の臨時雇いでラウーのピストン式F管ホルンを使いました。ロンドンに戻ると、有名なホルン奏者、ヴィクター・ブライトモアについてみっちり習うようになり、ついには彼と結婚しました。

 当時ロンドン交響楽団(LSO)が新しい4番ホルン奏者を募集していて、オーディションとして1941年のプロムスでブラームスのピアノ協奏曲第2番の3番ホルンを吹きました。ちょうどLSOは、クイーンズ・ホールが爆撃により破壊されたのち、ロイヤル・アルバート・ホールに移ったところでした。

 インタビューでトニー・キャテリックが当時の新聞記事「ブラームスの3番ホルンが素晴らしい演奏、しかも女性奏者!」やサー・ヘンリー・ウッドが私に宛てた「私のオーケストラに女性を入れることが如何に正しいかを君は実証した」という手紙を読み上げました。ゴランツさんは大変誇らしげでした。

 さらには1942年、デーム・マイラ・ヘスのナショナル・ギャラリー・コンサートでデニス・ブレインやボブ・グレイ、ノーマン・デル・マーたちとモーツァルトの「13管楽器のためのセレナード」で4番ホルンを吹いたことも紹介されました。

 1943年ジョン・バルビローリは、ハレ管弦楽団でBBCノーザンとフルタイムで兼任している楽員を整理していました(二つのオーケストラは、以前楽員を共有していた)。それで私がLSOで何度も吹くのをバルビローリが聴いていたので、彼に電話して1番ホルンの仕事がないか訊いてみました。バルビ「いくら欲しいのかね」、私「週12ポンドで如何ですか」ロンドン以外の契約としてはミュージック・ユニオン最低賃金より2ポンド多い額を言いました。バルビローリは、マンチェスターに来て翌月曜日から始めるよう言ってくれました。きっとヤケクソだったんでしょうけどね。
(続く)
2004年10月30日 15時46分42秒

第54話「米テレビ出演」
 1955年フィルハーモニア管弦楽団米国ツアーの最中、デニス・ブレインはNBCネットワークのテレビに出演しました。それはデイヴ・ギャロウェイ司会による「トゥデイ・ショウ」で、10月ニューヨークか、11月シカゴでの収録。デニスはスタジオに設えられたバー・カウンターに座り、ベンジャミン・ブリテンのセレナードから速いパッセージを2、3度吹いてみせたほか、楽器の歴史や特徴を語ったといわれます。1960年代にある図書館で番組をダビングしたテープが貸出に供されたと伝えられていますが、今のところ所在未確認です。
2004年10月23日 16時01分44秒

第53話「リネンのハンカチーフ」
 約2年のブランクの後、再びフィルハーモニア管弦楽団とロシア音楽のレパートリーを録音し始めたエフレム・クルツ。なんとかリズムを強調しようと足を踏み鳴らすものの、楽員全員が納得の棒とは言い難いものがありました。1957年5月、そんなクルツと楽団がアイルランド楽旅した時のある演奏会でのこと。ベートーヴェンのエグモント序曲の最後でクルツがひとつ余計に棒を振ってとても目立ってしまったのをオーケストラは一瞬無視。さらに聴衆が熱狂し嵐のような拍手を送ったため、クルツ大いに喜びました。それでか翌日のリハーサルでは楽員全員の譜面立てにアイルランド産リネンのハンカチーフがさりげなく用意されていましたが、余計なひと振りを無視してくれたことに対するお礼なのか、あのような拍手に対するものなのかは結局判りませんでした。(スティーヴン・ペティット著「フィルハーモニア管弦楽団」より)
2004年10月20日 21時11分58秒

第52話「魔法のキャンバス」
 デニス・ブレインが映画のサウンド・トラックで演奏しているものにハラス&バッチェラーのアニメーション「魔法のキャンバス The Magic Canvas」(1948年英国)があります。音楽はマーティアス・セイバー(シェイベル)が作曲したフルート、ホルンと弦楽器のための幻想曲。ガレス・モリス(フルート)、デニス・ブレイン(ホルン)とブレック弦楽四重奏団の演奏です。数秒ですがハラス&バッチェラーのウェブサイトでムービー・クリップを視聴できます。
2004年10月16日 11時18分07秒

第51話「1956年、ロンドンにて」
 ボストン交響楽団のホルン奏者、ディック・マッキーの話によれば1956年、クリーヴランド管弦楽団がロンドンを訪れた際、デニス・ブレインはあるパーティに招かれました。そこにはマイロン・ブルーム(当時クリーヴランド管)、アラン・シヴィル、フィリップ・ファーカスらがいてパーティの後、全員ロンドンのパブに繰り出したそうです。
2004年10月08日 11時19分51秒

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