英ミュージカル・タイムズ、1957年10月

デニス・ブレイン

ハロルド・ラットランド

 あの素晴らしいキャリアの持ち主、デニス・ブレインが三十六歳という若さで突然亡くなった。 この驚きと悲しみ。彼は以前私に、音楽以外ではスポーツカーの運転―というか「道の良いところ」へ出かけること―が一番楽しいと語っていた。 結局のところ、デニスは夜を徹して運転してきていたため、居眠り運転が事故の原因といわれている。 しかし、デニスの兄、レナードが言うように、彼は間違いなく第一級のドライバーであった。


 サー・トーマス・ビーチャムをして天才と言わしめたデニス・ブレイン。 戦争中、イギリス空軍音楽隊のホルン吹きだった私の友人は、彼をを神童と呼んでいた。 その友人は演奏中、デニスの近くに座っていると気が気でなかったと云う。 殆どのホルン奏者は出番のかなり前から自身と楽器の準備をするのに対して、デニスは吹く直前まで極めて平然と座っていて、 ほんの数秒前に楽器を唇に持ち上げて、なんの苦も無く、まさにぴったりのところでちゃんと音を出すのであった。

 はにかみ屋のデニスは自らを単に幸運だった、と云った。確かに彼は幸運にもホルンで名だたる家系に生れた。 彼の祖父、父、そして二人の伯父は全てホルン奏者だった。父オーブリー・ブレインはB・B・C交響楽団で一九三〇年創立時から一九四五年まで主席ホルンだった。 伯父アルフレッド・ブレインは長い間サー・ヘンリー・ウッドが率いるクイーンズ・ホール管弦楽団の主席ホルンを勤め、最近三十年位はアメリカに住み活躍している。 こういった伝統的家系はかえってデニスにプレッシャーだったが、十五歳で自らの意思でホルンを始めた。 一九五〇年、ドイツ、バーデン・バーデンでヒンデミットの協奏曲を初演した後、作曲者がデニス・ブレインのソロ・パート譜に書き添えた言葉がある。 「この曲を類稀な初演者に、作曲家より感謝を込めて」―けだし忘れがたい。


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