Orchestre de la Société des Concerts du Paris
パリ音楽院の創立
1795年8月(ナポレオン執政官時代)
メンバー
音楽院の教授と卒業生を中心とする
歴代常任指揮者
フランソワ・アントワーヌ・アブネック(1828‐1848)
ナルシス・ジラール(1848-1860)
アレクサンドル・ティルマン(1860-1863)
ジョルジュ・アンル
エドワール・デルドゥエ
ジュール・ガルサン
ポール・タファネル
ジョルジュ・マルティ
アンドレ・メサージュ
フィリップ・ゴーベール(1919-1938)
シャルル・ミュンシュ(1938-1949)
アンドレ・クリュイタンス(1949-1967)
主な初演曲
ベルリオーズ「幻想交響曲」(1830年12月5日、指揮/アブネック)
ベルリオーズ劇的交響曲「ロミオとジュリエット」
サン=サーンス交響曲第3番
フランク交響曲ニ短調
「ベルリオーズ回想録」から
女優ハリエット・スミスソンへの恋
シェイクスピアとその素晴らしい俳優、パリ中を熱狂させたあの麗しいオフィーリアのことが一瞬も脳裏を離れなかった。彼女の燦然と輝く栄光、それにひきかえ私のちっぽけな闇。
私は完全に打ち拉がれたていた。だが、ついに私は立つことになった。最後の努力をふりしぼって、私は彼女のところまで、彼女にとっては未知の名をとどけようと決心したのである。
今までフランスの作曲家が誰ひとり考えなかったことを、私は敢えて試みようとした。
私は自分の作品だけをプログラムにいれた大演奏会をコンセルヴァトワールで開催しようと計画した。私は思った―「僕だって表現できる人間なのだということを彼女に見せてやろう」と・・・
幻想交響曲、最初の演奏計画の失敗
オペラ・コミックのオーケストラによる演奏会の企画は130名もの演奏家を集めた結果、楽員の座る場所や譜面台が不足したため実現しなかった。
音楽院ホールでの初演
「舞踏会」と「死刑台への行進」と「悪魔の夜宴」はセンセーションをまきおこした。とりわけ「死刑台への行進」は満場をゆるがせた。ところが「田園の情景」は、まったく効果がなかった・・・
演奏会場の前を(楽院長の)ケルビーニが通りかかった。ちょうど聴衆が入口から入ろうとしていたときであった。一人がケルビーニを呼びとめて尋ねた。
「あれ先生。ケルビーニ先生。先生はベルリオーズの新作をお聴きにならないのですか。」
「わ、わたしには、してはならんことを、わざわざ知りに行く必要はございません。」とケルビーニは猫がからしを舐めさせられたような顔で答えた。演奏会が成功したものだから、なお悪くなった。
こんどはからしを舐めるのではなく呑んだようになってしまった。もう口をきかず、くしゃみばかりする。数日たって私は呼び出された。
「もう君はイタリアに行くんだね。」と彼は訊いた。
「はい、先生。」
「音楽院の名簿から君の名前は消すことになっとる。君の研究はもう済んだのじゃ・・・」
(丹治恒次郎訳、白水社、1981年9月)
ブルーノ・ワルターの幻想交響曲
ナチスの台頭によりライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団音楽監督、ブルーノ・ワルターは彼の演奏会が公衆の秩序と安全を脅かす≠ニいう理由でドイツ追放となる。
1933年ロンドン、1935年ウィーン、と拠点を移すが、ウィーンにおける地位も1938年のオーストリア併合でなきものとなった。
客演先のアムステルダムで無国籍者となった彼にフランス政府は市民権を与えた。1939年最終的にアメリカへ移るまでの2年間、パリで活動し音楽院オーケストラと録音を行った。曲目がそれまでの経緯をとても象徴している。
ハイドン交響曲第92番「オックスフォード」、ウェーバー「魔弾の射手」序曲、ヨハン・シュトラウス「こうもり」序曲、ヘンデル合奏協奏曲作品6の12、そして1939年5月19日と20日の幻想交響曲。
アタウルフォ・アルヘンタの幻想交響曲
アタウルフォ・アルヘンタ(1913.11.19-1958.1.21)の幻想交響曲のレコーディングは1957年11月11日から13日、パリ音楽院管弦楽団の録音専用ホール、メゾン・デ・ラ・ミテュアリテ(共済組合会館ホール)にて若きエリク・スミス
のプロデュースで行われた。彼によればスペインの希望の星、アルヘンタは最近楽員の評価がメキメキと上がっているが、極めてプロフェッショナルで協力的だった。あるセッションでは、パリ市の何かのお役人が数名大事なところで突然ホールに入ってきて、
オーケストラのメンバーは目に見えて混乱したが、指揮者アルヘンタはちっとも感情的にならず、むしろ静寂が取り戻されるまで静かに待っていた。教育映画の一瞬の一コマのようにアルヘンタの指揮台での姿はエレガントであり、
鋭い極めて表現に富んだバトン・テクニックを持っていた。
(英ICRC1995年創刊号)