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深夜の太陽の国の有名なホルン熱心家

 この記事は、国際ホルン協会(IHS)、2001年5月発行「ホルン・コール」第31巻第3号に掲載されたものを、同協会誌編集長、ジェフリー・スネデカー氏に許可(同年12月30日付け)を得て翻訳、再掲載したものです。

     This page is translated and re-printed from 'In Memoriam' for the late Kjell Moseng (1942-2000) on The Horn Call Volume XXXI, No.3, issued by International Horn Society (IHS) on May 2001, with the kind permission of Jeffrey Snedeker, the Editer.

故ケル・モセン ケル・モセンは、1942年5月29日、北極圏の北、ノルウェイの町ナルヴィクに生れ、音楽とホルンに関する知識はとりわけ深く、北欧やヨーロッパ、日本、ロシア、アメリカのホルン奏者の間で高く評価され、よく知られた存在でした。

 ノルウェイでは多くの子供がそうするように、彼は学校で楽器を始めました。楽器はすぐさまホルンとなりました。古いクルスペでしたが、大概の音を出せるようになるとすぐに、友達と一緒にナルヴィク中にこのホルンというものを広めようと決心しました。町中の学校を廻ってはホルンの二重奏や有名なソロを演奏して、小さい子供たちの間で大評判でした。彼のオーケストラが隣町で演奏するために移動(大抵一日がかり)するときの話も傑作。道が悪いため、橋の下を通るような時、あらかじめバスの屋根に載せた大きな楽器は全て下ろさねばならず、また積み直し。しかし深夜の太陽の国で彼を有名にしたのは、このようなホルン奏者としての経歴ではありませんでした。

 高校を卒業してから1年間の徴兵を終え、オスロの大学で司書になる勉強を始めました。1966年に卒業後、デンマークに移住。兄ビヨルナルは、既にかの地コペンハーゲンの音楽院でイングベルト・ミケルセンに学んでいました。ミケルセンは当時デンマーク放送交響楽団のソロホルンで、ラジオ番組を通じてノルウェイのホルン吹きにもよく知られていました。若いケルは、その頃既にお小遣いでレコードを買い始めており、夜になると大陸から極北にやっとこさで届いてくるラジオ電波を捕えようとラジオのつまみを合わせたものでした。そんな訳で、デンマークでホルンの名人に紹介されたのは、彼にとって一つの目標を達成した、ということでした。

 コペンハーゲンにてケルは沢山のホルン奏者と出会い、所属する室内オーケストラ「ユーフロシヌ」に籍を置いたほか、コペンハーゲンにある殆どのアマチュアオーケストラでアシスタントを務めました。ケルと出会ったホルン奏者の誰もが、この北方から来た男はホルンの音楽を驚くほどよく知っている、と感じました。あいにく言葉にナルヴィク地方の訛(なま)りがあるため、たくさんのデンマーク人に理解されなくて困りました。結局は、ケルの友人が言うように、標準的なノルウェイ語を話せるようになってから、全てが上手くいくようになりました。ケルはホルンの音楽を語るときはいつも大変熱心であり、その熱意は他の人に伝わりました。

 ケルはおそらくSPやLP、テープ、CDの世界的コレクションのひとつを持っていました。彼は誰とも競争しようとはせず、ホルンへの純粋で燃えるような興味と愛を持ち続けました。ケルはLPやCDを1枚買うようなことはせず、いつも何枚も買いました。何故かと言うと、それを友達に分けたり、他のコレクターと交換するために余分に持つようにしたのであり、決して商売する為ではありませんでした。我々はかかる「ビジネス」が儲からないものと考えます。彼の友人にとってケルが知らないあるいは世界中のたくさんの知己をたどっても入手できないLPやCDがある、なんてことは考えられないことでした。レコードや古物商は彼にとってメッカであり、そこで彼が大量のレコードを物凄いす速さで買ったり、同時にレコードのデータやオーケストラのホルン奏者のメンバー表を語るのに出くわすことが本当によくありました。彼の知的能力はオーフス市立図書館の司書としての職業においても有用でした。

 ケルが子供の頃から集めたホルンとその音楽に関する全てのものは、ひろく全ての人に共有されました。例えばCDのブックレットなどでホルンに関するこを記事にするような場合、ケルは生きた百科辞典であり、いつも信頼できる資料を提供しました。ケルが相談を受けた最後の本は、ジョン・ハンフリーの「初期のホルン、実用ガイド」でした。デンマークのクラングスティケットやスウェーデンのモヴィッツのようなブラス誌がレコード評を、或いはヨーロッパのあちこちのホルン協会で少し記事が必要だという時、ケルにちょっと連絡すれば彼はすぐ提供しました。デンマークの友人がケルと言えばナリヴィク訛りを思い起こしたにも拘らず、ケルは英語、ドイツ語、フランス語、オランダ語、チェコ語ほかを上手に話しました。最近ではフィンランド語も勉強していました。北欧のホルン・セミナーやヨーロッパでのホルン・シンポジウムで、ケルはいわゆる「お馴染み」さんでした。ケルの講演は、コレクションからのレコードと気の利いたユーモアが交えた、まるでホルンの歴史を探検するようなもので、いつもセミナーのハイライトとも言えるものでした。セミナーでケルは独学の、とても魅力的な北欧の言葉を取り混ぜて話し、それは誰にも判りやすいものでした。

 ケルは友人のためにセミナーには黒地の布製バックを持ってきました。こういう場所に初めて参加してからというものの、このレコード交換の確かな運び人にとって、それは頼れる友であり欠かせぬものでした。

 ケルは、2000年10月24日、オーフスの自宅で最愛の本や、楽譜、レコードに囲まれた中で亡くなりました。同28日、トッドベルグ教会にて厳粛で感動的な葬儀が行われました。教会は友人で満席となり、セレモニーではケル最愛の楽器の四重奏によるJ.S.バッハのアリアやO.リンドベルグのGammal Fäbodpsalmが演奏されました。ケルの死去はホルン界にとって大きな損失であり、たくさんの友人がケルとシッセの家で夜更けまで音楽を聞いたり、議論する機会を失うことになるでしょう。彼の早過ぎる死は残された者に大きな空虚を残しましたが、彼は決して消えることのない轍を残し、永久に我々の記憶に留まるでしょう。我々は彼の友人であったことに本当に感謝致します。

IHS