■曲紹介

J.S.バッハ(1685-1750)
 ブランデンブルグ協奏曲 第1番 ヘ長調 BWV.1046

 父オーブリーの教えは、ボアの細い、ピストンヴァルヴの付いた古いフレンチタイプホルン、ラウーを本来の調性である(ウィンナホルンと同じ)F管で演奏することであった。ただでさえ吹き損じの多いこの楽器を学ぶ者にとって、このオーブリーの教えは、脅威とも時代錯誤とも言えるものだったかも知れない。けれども、息子のデニス・ブレインは見事にやってのけ、父を凌駕してしまう。後年、楽器をドイツ式(太ボア、ロータリーヴァルヴ式B♭シングル・ホルン)に替えても、さらに高みに上る。バッハのブランデンブルグ協奏曲第1番ヘ長調は、そんなデニス・ブレインが1938年10月6日、クイーンズ・ホールにおける17歳の初舞台で演奏した思い出の曲。この日、父オーブリーが1番、デニスは2番。唯一この曲とボロディンの序曲「イーゴリ公」だけは、ラウー・ハンド・ホルンにB♭替管(管が短いので高音が出しやすい)を装着して演奏されたという。

デニス・ブレインとブランデンブルグ協奏曲に関するエピソード

 16歳のデニスは既に将来世界的に有名になると思える位上手でした。実際そうなってからも、相変わらず魅力的で謙虚さを全く失いませんでした。彼は「オーケストラで父親の隣に座ること」を願っていました。私はそれが実現した場に少なくとも二度いたことがあります。一度はブッシュ・チェンバー・プレイヤーズの演奏会、2本のホルン・パートのあるブランデンブルグ協奏曲第1番で、友達数人でクイーンズ・ホールの舞台席でこのブレイン家の歴史的イベントを間近で見ました。二度目は12年後、フルトヴェングラー指揮フィルハーモニア、デニスは1番、オーブリーは誇らしげに3番、世代交代という訳でした。

(デニス・マシューズ「音楽を求めて」、ゴランツ、1966年)

 私達はボイド・ニールとブランデンブルグ協奏曲第1番を録音しました。印刷されたパート譜が、古いおきまりの校訂で面白くないので、原典の形をバッハが二つのカンタータに改作したもの引用している教則本から関連する楽章を吹きました!デニスが譜面の必要なところを書き換えると、このヒース・ロビンソンによる二本のホルン・パートはとても面白く、大変難しい曲というよりも、どこも最高に楽しい特別な一日となりました。

(ノーマン・デル=マー「デニス・ブレイン賛」、雑誌「グラモフォン」1958年10月)

 ええ、私もデッカのブランデンブルグ協奏曲の1番を持っています。独奏者の名前はデニスが当時コロンビアの専属だったため、表示することが出来ませんでした。でも私たち二人はさておき、ソロ・ヴァイオリンはフレッド・グリンキ、オーボエの一人はレナード・ブレイン、1番オーボエと1番バスーンはたしかナタリーとセシル・ジェームズでした。それとあなたはロイ・ヘンダーソンがノッティンガム・オリアナ合唱団やグウェンドリン・メイソン(ハープ)、デニス、そして私を指揮したブラームスの四つの歌作品17の小さなデッカの10インチセットを持っていますか?

(ノーマン・デル=マーからスティーヴン・ギャンブル博士への手紙、1990年9月4日)

 私自身嫌な経験があります。ブランデンブルグ協奏曲の12年ぶり(1956年)の再発売でのことです。レコードをかけてみると、最初の3曲のどの楽章もオリジナルの録音よりずっと速いか遅いのが判ってぞっとしました。でも信じられないのはピッチが同じなのです!私はデッカ社に即刻回収を求めました。当初デッカは知らぬ存ぜぬを通しました。それから何か間違いがあるなら、オリジナルテープを見つけて会社に持ってこいと。告訴の恐れからか、デッカは突然にも誤ったテープを発見し、すべての再プレスには正しいテープを使用したいと。しかしながらあの欠陥品は、いまだに私の作品として売られています。

(ボイド・ニール「私のオーケストラとそのほかの冒険」、トロント大学出版、1985年)

ブラームス(1833-1897)
女声合唱と2本のホルン、ハープの為の4つの歌 作品17

 ブラームスは、この作品17(ベートーヴェンのホルン・ソナタと同じ番号)の女声合唱曲を1859年(26歳)から翌年にかけて、主としてデトモルトとハンブルグで作曲。曲は、2本のホルン(第1曲のみ1本)とハープを伴奏にソプラノ2部(第4曲の中間部は4部)とアルトのために書かれています。当時、ブラームスはデトモルトの公爵家にピアノ教授として勤務しており、そこの貴婦人たちによる女声合唱団の指導をしていた為に、こうした曲が作られました。またブラームスは、ある令嬢と恋愛中でしたので、ロマンチックな色の大変濃いものとなっています。初演は、第1〜3曲のみ1860年3月31日、全曲を翌1861年1月15日、いずれもハンブルグで行われました。歌詞はもちろんドイツ語(第1曲は、フリートリヒ・ルペルティの詩、第2曲は、ウィリアム・シェークスピアの詩をアウグスト・ウィルヘルム・フォン・シュレーゲルがドイツ語訳したもの、第3曲は、ヨゼフ・フォン・アイヒェンドルフ、第4曲は、3世紀に実在したといわれる吟遊詩人オシアン(Ossian)を原作としてイギリスのジェームズ・マクファーソン(1736-96)が出版した詩集からヨハン・ゴットフリート・ヘルダーがドイツ語訳したもの)ですが、このノッティンガム・オリアナ合唱団は、第2曲のシェークスピア以外はトラウトベック博士による英語訳詞を使用しており、そこでまた若干の削除や順序の変更がなされています。この録音に限らず、当時のイギリスのオペラや歌曲録音には英語(訳詞)歌唱のものが多いようです。

(資料提供:清水直行、スティーヴン・ギャンブル、参考文献:最新名曲解説全集23/音楽之友社、ニューグローヴ世界音楽事典/講談社、クラシック音楽作品名事典/三省堂、DECCAディスコグラフィー/マイケル・スミス)

ヘンデル(1685-1759)
2本のクラリネットとホルンの為の序曲(別名:組曲) HWV.424

 1742年頃作曲。クラリネットの為に書かれた作品としてモーツァルトより以前のもの。J.M.クーパースミス、ジャン・ラ・ルー校訂(ニューヨーク、1950年)とカール・ハース校訂(ロンドン、1952年)があります。ベーレンライター(ライプチッヒ)から1979年に出版された楽譜によると、曲の順番が1.アンダンテ、2.アレグロ・マ・ノン・トロッポ、3.ラルゲット、4.アンダンテ・アレグロ、5.アレグロとなっており、デニス・ブレインらの演奏(5.が3番目に入る)と異なっています。ラッパを吹くようなスタイルでありながら、ナチュラル・トランペットでは演奏不能な全音階を要求しているところが面白いです。演奏しているクラのフレデリック・サーストンとジェルバーズ・ド・ペイエはロンドン王立音楽大学で師弟関係にありました。後にロンドン交響楽団に入団しソリストとして有名になったペイエもこの録音当時は未だ23歳でした。

(資料提供:清水直行、参考文献:ニューグローヴ世界音楽事典/講談社、ジャン・ラ・ルー「ヘンデルのクラリネット」/ミュージック・レビュー、1960年8月号)

ウェーバー(1786-1826)
歌劇「魔弾の射手」序曲

 1821年6月18日、プロシャ王立劇場で作曲者自身による指揮で初演。もともとの題材は、J.A.アペルとF.ラウン共著の『怪談』に入っていた民話から発想されました。初演から圧倒的人気を博し、以降ドイツ・ロマン派歌劇の隆盛を招き、その為にウェーバーは「ドイツ歌劇の創始者」と言われています。ベルリオーズをして「古今の流派を見渡してみても、あらゆる観点から『魔弾の射手』のスコアほど完璧なものを見つけることは困難である…」と言わしめた名作です。序曲は、序奏部9小節目より弦の伴奏にのって4本のホルンによる「森のテーマ」が現れ、聴衆をボヘミアの森に誘います。最初4小節を2本のC管(3、4番)ホルンが吹奏して、それに2本のF管(1、2番)ホルンが加わります。この部分は、わが国では唱歌(教育用歌曲)に採用され、「秋の夜半」(作詞:佐々木信綱)という題名で親しまれました。

(参考:歌劇「魔弾の射手」序曲/全音楽譜出版社)

歌劇「オベロン」序曲

 ロンドンのコヴェント・ガーデン歌劇場は大陸でのウェーバーの評判を聞いて、彼に新しいオペラの作曲を依頼しました。台本は、クリストフ・マルティン・ヴィーラントの叙事詩「オベロン」の英訳で、ウェーバーはおりからの病(肺患)を押して作曲を進め、渡英して完成。1826年4月12日、同劇場において自身の指揮により初演。またも圧倒的な成功を収めましたが、過労がたたって2ヶ月後、かの地ロンドンで客死。40歳の若さでした。序曲は、いきなり素晴らしくロマンティックなホルンのソロで始まり、それは妖精の王オベロンが騎士ヒュオンに与える魔法の角笛であり、デニス・ブレインはF管ラウー・ホルンで演奏しています。

(参考:歌劇「オベロン」序曲/日本楽譜出版社)

トマ(1811-1896)
歌劇「ミニョン」序曲

 ゲーテの小説『ウィルヘルム・マイスターの修業時代』から題材を採ったのがアンブロワーズ・トマの歌劇「ミニョン」。序曲は、クラリネットとハープのカデンツで始まり、次いでホルンによる甘味なメロディが現れる。「君よ知るや南の国、樹々実り花は咲ける、風はのどけく鳥は歌い、ときをわかす胡蝶舞い歌う…(堀内敬三宇治訳)」有名な第1幕、薄幸にして可憐なジプシーの少女ミニョンのアリア「君よ知るや南の国」である。

(参考:歌劇「ミニョン」序曲、日本楽譜出版社)


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